はじめに明確にしておきます。わたしは死刑制度にあらゆる場合において反対です。さらに死刑制度廃止のための段階的課程における終身刑導入という理論にも反対の立場です。
今回は死刑について書こうと思いましたので上記のように立場をあらかじめ明確にしておく必要があると考えました。最近ある事件に関する裁判の報道の中で検察側の死刑求刑と弁護側の無罪の主張、それぞれの間の争点として被告の“責任能力”の有無が取り上げられていました。“責任能力”。この言葉が飛び交いその有無が争点となるという状態は死刑に関係する裁判の場合にはよく見られるものです。しかしこれを争点とするとはいったいどういうことなのかとても疑問に思いました。不可解だったのです。
死刑制度は排除の理論で成り立っています。われわれには到底理解不能な性質を持つ人間は抹殺してしまおうという考え方です。人間を人間とみなさず悪魔化するような言い回しは巷間よく見受けられるものですが、そのような排除を正当化する考え方や思想は、人々を特に社会的マイノリティの立場にある者を周縁化し、やがて差別や抑圧や暴力という形となって表出します。権力による殺人という暴力を肯定する死刑はその究極形とも表現できるものですが、その根底に流れる思想が排除の理論なのです。
権力構造を説明するときにピラミッドのような図が用いられることがよくありますが、そのモデルでは捕捉しきれない構図が社会にはあります。それは中央と周縁という関係、社会の中央/内部と周縁/外部とで表される構造です。排除された人々は周縁に追いやられ社会の外部へと弾き出されます。内部にいる者から見ればつまりはいないことにされるのです。
ある特定の人々をいないことにしてしまうとは、そうではないわれわれは確かにここにいるのだということを認識することでもあります。それを確かめ合うことで安心感を得ているのです。われわれとは決して交わることのない悪魔のような存在を消し去った後で、人間であるわたしたちは手を取り合って安心しながらお互いを監視し合っているのです。わたしは排除されない。次に排除されるのはどいつだと。そして内部と外部の境界というものは、一度外部へと排除されたが最後内部への侵入を許しません。
浮浪者は外部の人間である。かれらが境界の向こう側にあるかぎり、市民社会の法と秩序は浮浪者を許容しているようにみえる。しかし、ひとたび境界を侵し、内部をうかがうならば、かれらは即座に法と秩序という名の鎖で捕縛されることになる。*1
死刑制度はこのように、生命という意味はもちろん内外の境界という点からしても不可逆的な排除の究極の形であると言えるでしょう。
次に冒頭で言及した裁判の争点となっている“責任能力”の有無についてです。ここでも書籍からの引用を元に考えてみます。
精神病という概念がここでは、わたしたちの不安を打ち消すための解釈装置であり、また社会文化メカニズムと化していることはあきらかだろう。ある犯罪が了解しがたいのは、それが精神病におかされた異常者によってなされる、動機や意味のコンテクストから断ち切られた行為であるからだ。そうした、たいていは司法と精神医学の接点でものがたられるあやしげな解釈は、ほんの一瞬だけ、わたしたちに安堵をあたえてくれる。*2
争点となる“責任能力”の有無とは、引用における“精神病におかされた異常者”と被告を結びつけることが可能か否かということです。可能ならばすなわちその行いが“動機や意味のコンテクストから断ち切られ”ると判断されることを意味します。断ち切る側の立場からすれば聞く価値がないと両断できると言い換えられるでしょう。少なくとも犯行当時の被告の状態は“了解しがたい”ものだと片付けられ、そのような状態の者の話など聞く必要はないのだと排除しているわけです。
犯罪という悪を病いに還元する方法はおそらく、人間だれしもが避けがたく抱えこんでいる悪への可能性、そのあらわれとしての犯罪、それを病いという了解しやすい文脈のなかにおきかえ、犯罪そのものの不気味さ・わけのわからなさを無化しようとする試みである。犯罪が病いのあらわれ=症状にすぎないとすれば、犯罪はけっしてメッセージないし意味ある行為として解読されることがない。犯罪という鏡のおもてに映しだされる、人間という不可解な存在の昏がりを覗きこむ作業は、周到に回避される。*3
言葉を断ち切ることに加えて必要になるものは、病いと犯罪を連結させることで被告という人間とその行いを断ち切る行為です。分断された両者の一方は“了解しやすい文脈”として過去から未来へと受け継がれる安全装置として語られ始めるでしょう。またそれは境界の外部へ排除された後に内部のわたしたちによっての管理がなされることでしょう。そうしてもう一方の行いといえば全く“無化”されたあげくこれもまた葬られるとともに排除されるのです。
死刑制度は排除の理論により成り立つと書きました。死刑を通じた排除を否定するために、また別種の排除を肯定する。“責任能力”というもので死刑に対抗するのはそのような行為にわたしには思えてなりません。たしかに現状制度が存在する以上公判過程での“戦略”として“責任能力”を持ち出すという考え方も理解はしていますが、裁判の中で使われる用語は権力性を帯びたメッセージとなり当事者以外の人々にも伝わります。そうして排除の理論という思想が日々メディアを通して伝播する有害性は多大なものです。脱排除のための排除。それをもわたしは否定し続けたいと思います。
ある確定死刑囚が、取り調べた警察も検察官も裁判官でさえも誰一人わたしの意見や気持ちを聞いてくれなかった。死刑は受け入れるがそのかわりわたしは一切反省することを拒否すると述べたというあるジャーナリストによる報告を読んだことがあります。死刑制度の生身の姿をみたような感覚とこれこそがその実態なんだとわたしは思いました。この話からも同じように、完全に無化し見えないことにする、存在ごといないことにする排除の理論が浮き彫りにされます。少なくともわたしは誰も排除されない社会こそが目指されるべきものだと信じています。人々を周縁化し中心にいる自分たちを強固に守る境界線の壁の内部で“安全”に生きていたくなどない。
そもそも国家による殺人や人権侵害がどうして容認され得るのかということや、冤罪可能性、不可逆性、残虐性、不透明性など司法制度や行政手続きにおける問題点など、死刑制度そのものに批判されるべき項目は数多くあります。しかしその根底にある思想を批判し否定する態度がまず共有されなければなりません。排除の理論の否定が共有されて初めて、死刑廃止への一歩は踏み出されるはずです。