誰の感情なのか

 死刑反対の表明をすると必ず"被害者遺族の感情は"という言葉を投げかけられます。そして加害者擁護や加害の矮小化という全く別の方向へ歪曲され、やがてとても冷酷なやつだというような評価をいただくことも茶飯事です。被害者遺族の感情など軽々しく話せるものではないはずなんですが、それでもそれをあたかも自分は理解しているかのように持ち出してくるあたり、わたしには非常に傲慢な態度に思えます。はっきり言ってしまえば、被害者遺族の感情はわたしにはわかりません。わかるはずがない。仮にわかるとしてもそれが死刑制度を肯定する理由になるとは思いません。逆に遺族という立場から死刑に反対する人たちに対して、わたしたちの社会はその訴えを無化するかあるときは攻撃の対象にして否定さえしてきました。それが被害者遺族の感情を尊重する態度といえるでしょうか。お前はわかるのかと人に迫るしかくなど誰にもないのです。

 国家が暴力を独占しているということがこの死刑制度にまつわる問題のひとつなんですけれど、それは私的な場での報復、復讐的な暴力を防止するためという説明もなされます。国家による刑罰という暴力が肯定される建前としてはそういうことです。被害者、遺族と刑罰との関わりでは裁判における被害者参加制度があります。事件の被害者や遺族が公判への参加を裁判所に申し出た場合、一定条件下でそれが認められるという制度です。しかしこれは先に述べた私的な報復という点や公正さ、無罪推定の問題など様々な立場から批判がなされている制度でもあります。それに加えて、そもそも死刑が関係する裁判であるからといって特別な手続きが要求されるということもない日本の司法制度の問題もあります。日本の裁判員制度だと有罪無罪だけでなく量刑まで裁判員が関わります。しかも全員一致ではなく多数決という方法です。それは死刑が関わる事案でも同様です。人の生命を国家の暴力によって断つのか否かという判断がなされる場でさえ、手続き上なんら特別なものとして扱わないのです。このような中でなされる被害者参加制度のもたらす悪影響は非常に深刻な問題だと考えます。被害者や遺族に必要な具体的な支援やケアが全く不十分であるにもかかわらず、こういう制度はその問題点をおざなりにしたまま押し通す。負担ということではむしろ増加してさえいます。これでは一体誰の"感情"を考慮しているといえるのでしょう。それは第三者であるわたしたちの"感情"のためのものではないのかとさえわたしは思います。

 なんらかの"犯罪"とされる物事が起きたとき、その残虐性が顕著なものであればあるほど自分には理解しがたい無関係なものとして距離を取りたいということはよく理解できます。しかしそれで一体何が解決しどう社会が変わっていくといえるのでしょうか。死刑が執行された後にその関係する事件のことがどれだけ語られるでしょうか。マスメディアがどれだけ報じるでしょう。ほとんどなされないですよね。そうしてみえないように蓋をして葬り去る。死刑とはそういう制度です。みえなくなったことをわたしたちは“治安の維持が今回も達成された”とみなしているだけなんです。また、よくわからないものとある属性を紐付けることで何かを理解したつもりになり、その属性と結びついたよくわからないものごと排除することをまた“治安の維持”として確認しあい安心する。そこでは"懲らしめ"の情熱が沸き起こり、それを利用して揺さぶる権力は自らの暴力を最大限に正当化することでしょう。つまりここでも優先されているのはむしろわたしたちの"感情"の方なのです。

 先日”被害者遺族の感情”と近い考え方の"あなたの家族が被害者ならー"という反論をいただきました。わたしはまずこのように誰かをわたしが所有しているものかのように考える権威主義的な態度を拒否したいですし、そもそも家族なるものが基本単位かのように当然のごとくそれを持ち出す家父長的あり方も拒否したいのでこの言説にはのりませんけど、ここでもやはりいま現に存在する被害者のことではなくて自分の"感情"に照らして思考する、あるいはそう思考せよと促しているわけです。わたしの家族がと想像すればある被害や被害者のことがわかるはずだなんて思い上がりもはなはだしい。これは個を否定している行為でもありますし、想像ではなく現に起きたできごとやある存在の話をすべきなのにです。これは被害のことにも加害のことにも向き合っている態度とは到底いえません。同じことが繰り返されてはならないと何度もいいながら、それと向き合うことを断ち切って葬り去る死刑制度を維持する社会を肯定することの間に矛盾が生じてもいます。むしろ向き合うことを拒否しているかのようです。

 余談なんですけど、この“あなたの家族がー”に対して仮に別にそうであっても何も意見は変わりませんと答えたらどうするんだろうかといつも思うんですよね。ちなみにわたしはそうであっても何も問題はないと思うのですが、しかしそうなると差し詰めわたしを極悪人に指定するしか道はなくなるわけで、ただでさえ死刑反対ということで悪者なのにさらにという大変忙しい事態が巻き起こるなあとか思ったりします。ということは結局これは相手を追い込んでしまえという発想にすぎず、議論なんて元々するつもりはないのでしょうからのっかったって仕方のない話ですね。

 

 誰かを選別して排除し殺してもいいという思想や、それらの暴力を独占している権力を支持しているということは、自らもそれに加担しその権力を有する当事者でもあるということです。これも日本の司法制度の問題点のひとつですが、執行後に発表されその実態なども完全に秘匿されている死刑制度にある意味守られる形で、全くそこをみなくても触れなくても考えなくてもいいように、殺人に自分が間接的にでも加担しているのだという事実にも向き合わなくていいようにこの社会はできてしまっています。こんな恐ろしいことはないとわたしは思います。死刑制度に反対しているわたしもその例外とはならないのですから。間接的にといいましたが、当然その一方では直接的に関わる刑務官等にかかる負担もまた重大な問題です。そうした問題すべてを明らかにしたうえで早急に死刑制度廃止の議論を進めることがいま求められていることです。