『福田村事件』

『福田村事件』(監督/森達也、脚本/佐伯俊道、井上淳一荒井晴彦)を観ました。1923年9月6日、香川県のある被差別部落から関東に行商にきていた一行が、関東大震災時の朝鮮人暴動デマによって扇動された民衆に暴行を受け、そのうち十人が惨殺されたという“福田村事件”をテーマとした映画です。既に公開から半年近く経過していますし、様々な批評、レビュー等あるでしょうが、わたしなりに少し批評してみたいと思います。

 


 

 澤田智一(井浦新)、澤田静子(田中麗奈)の夫婦が、当時の植民地朝鮮から福田村へ戻ってくるところから物語は始まる。朝鮮にある国策企業の重役を親にもつ静子と朝鮮では教師をしていたという智一。周囲からかなり浮いているのはふたりの都会的な出たちだけが理由ではなく、封建的な共同体の中にリベラルな思想を持ち込んでいるがゆえでもある。ふたりがかつて朝鮮で目撃した日本人による暴虐の数々がその思想形成に大きく影響しているのだが、特に智一について言えば4年前の三一独立運動の際の朝鮮人虐殺に不本意ながらも関わった自身の過去に苦しみ続けている。福田村に帰ってきてからは極力権力的立場からは距離を取って生活しているのも、権力に利用され虐殺に加担した過去に起因するものと思われる。

 智一の寝ている布団に入ろうとする静子に「できないんだ」と彼が拒絶の意思表示をするある夜の場面がある。静子の「4年前からよ」という台詞によって、智一が静子を拒絶することとかつての彼の朝鮮での経験とが重ねられる。このような、あるものの性的な決定や意思を、その個人のある経験と結びつけることで解釈できるように誘導したりそう説明したりするというのは非常に暴力的な表現である。他者からの一方的なまなざしによって規定されることで個人の自己決定が歪められ毀損されている。また彼のように一見マッチョとは離れたキャラクターをそう表現するというのもまた暴力的であるしそもそもかなり安易なのだが、“妻に求められても応えられない夫”という“男性性の喪失”を智一に被せる、構図としては実はかなりマッチョな場面でもある。

 島村咲江(コムアイ)はシベリア(対ソ干渉戦争)で夫が戦死したという経験をもついわゆる“戦争未亡人”である。咲江は村で船頭をしている田中倉蔵(東出昌大)と性愛関係にあり、そのことを噂されたこのふたりは村でつまはじきのような扱いを受けている。その中でも特に倉蔵に対して執拗な敵愾心をみせる井草茂次(松浦祐也)は、妻の井草マス(向里祐香)と父井草貞次(柄本明)の“嫁ー義父”の間の性愛関係に苦しんでいる。ここでも性愛を出発点とした”男性性の喪失”が描かれている。茂次の父貞次に対する屈折した感情や強烈な劣等感は、倉蔵に対する攻撃に転化される形で表出される。咲江との関係によって村では周縁的立場に追われている倉蔵が、男性性を軸にした場合には優越的地位を与えられるというセクシズムの構造が、茂次による攻撃にはじまるふたりの対立関係によってより明白に浮かび上がる。

 

 一方、智一のもとを去ろうと家をでた静子は倉蔵のこぐ舟に乗って河を渡る。その舟上でふたりはセックスをするのだが、最中に起きた地震(関東大震災)でそれぞれの身を案じてかけつけた智一と咲江にふたりの関係は目撃されることとなる。この件によってこの四人の関係は“痴情のもつれ”のような展開をみせるのだがこれについては後に検討することとして、まず女性の性愛描写についてである。智一の拒絶に表されるふたりの関係性の距離に苦しむ静子。夫の出征と戦死に加えて"戦争未亡人"というラベルを負わされている咲江。夫茂次の出征中に義父貞次と関係したマス。このように三人の女性は共通して“淋しい女”という背景を背負わされている。むしろ“淋しい女”でなければならなかったとさえいえる。そうでなければ欲求を開示することも、規範からはみ出すような行動をとることも全て許されない。何らかの理由、それもマジョリティが納得し同情さえする“好ましい”理由が付帯されて初めて女性の性愛やセックスという行為が語られる、あるいは語ることを許される。極めて古典的な“女性性”を要求するセクシズムに基づいた構図の上でこの三人の女性の性愛は描かれている。

 静子、咲江、智一、倉蔵の四人の関係性は、モノアモリー、モノガミー規範を前提としている。この規範が社会にとって支配的位置を占めているからこそ成立する展開なのだが、この無自覚と思われる表現を繰り返すことによって存在を否定され口を封じられる立場のひとたちがいることをまず押さえておきたい。その上である規範から外れた行為によって共同体の中で周縁化された立場として描かれてきたものたちを、また別の規範にいわば縛り付けるようにして当然のように役割を当てはめて物語を動かしている。全体的にいわゆる説明台詞が多用される映画なのだけれど、ここについてはあまりにもその前提が自明なことかのようなその振る舞いが作用してか、キャラクターによる直接的な語りが少ないぶん個々の想いなどはみえてきづらい。一方的にかなり前向きな捉え方をして交差性が描かれているとみることも可能だが、しかしいずれにしてもその機能として暴力性を湛えていることは重ねて指摘しておきたい。

 

 ここまで“女性性”“男性性”といった性規範やセクシズムが性愛描写を中心に様々な仕方で表現され、抑圧や暴力などの形となって映画内で表出される様子をみてきた。そして時間が9月6日へと移り、在郷軍人をはじめとする民衆が行商団を囲いこんで罵声を浴びせている場面、まさに“事件”が勃発する中での静子と智一の行動の中にもそれらはみられる。騒動の中静子は「あなた、また何もしないつもり?」と智一を糾す。戸惑いながら動かない智一を見て諦めた静子が自らその中に飛び込もうとしたのを制するように智一が「この人たちを知っています」と叫び群衆の中に割って入っていく。“妻を守る夫”という演出を通して智一の“男性性の回復”は劇的に達成される。映画内では確かに一貫して抑圧的で暴力的なものとしてマチズモを否定的に描いている。特に在郷軍人たちのようなその象徴的存在には“愚かさ”を付帯して批判してもいる。しかし智一についてみれば結局“男をみせる”ことでしか救いを用意することができなかったわけだ。言い換えれば、権威やその抑圧を表面上否定的に描きだしてはいるものの、上位の男性性と下位の女性性というジェンダー構造はそのままに、むしろそこに無批判に乗っかる形でしか彼を物語ることができなかったといえる。

 もっともこの映画でなされていることは抑圧的に働く規範などを解体しようと試みることではない。あくまでそれら規範は事件を“普通の人々”を通してみようとするときにその背景に存在する諸要素にすぎない。だとすれば、解体を試みることやその可能性を語ることができるのは鑑賞するこちら側だと考えて批判的にそれらを検討してみた。物語を動かす多くの要素を性愛(異性愛)に帰着させてみせ、あらゆるパーソナリティやキャラクター同志の関係性をもそれで説明しようとすることそのものや、その規範的構造に無自覚、無批判でいることの権力性や暴力性についてわたしは批判的にならざるをえない。

 

 しかしここまではまだ良い方で、行商人の部落女性についてはほとんど何も描かれない。例えば物語の中のマイノリティが無謬化されて描かれる問題についてはよく指摘されるところだが、本作についてはその問題への注意を払った様子は確かにうかがえるものである。しかしそれでも部落の中の家父長性や性差別については批判どころか全くそうだとよめる直接的な描写はない。部落女性に至ってはまともに描かれないがゆえに批判も評価もしようがない。まさにこの映画が描く1923年に結成された婦人水平社の面々が訴えたことを、100年が経った今もまだ訴えなければならない。そのことが実に残念だ。部落の女性の受ける抑圧をないことにしその存在を歴史を消すな。そういうことである。

 “普通の人々”を通して虐殺を描く重要性は重々承知している。しかしそれでも言葉を奪われてきた、いや今も奪われているマイノリティによる語りをわたしは聞きたい。性愛を中心に書いてきたが、全て異性愛に限定されているこの映画でのそのあり方を含めて、ジェンダーセクシュアリティについて完全に存在を消されるマイノリティへの暴力は延々と続けられている。そこにいない、何も語らない語られないことについての批判をすることの苦しさは、それを訴えるためにどこをいくら探しても誰もいない虚無に向かって繰り返し叫んでいるような感覚だ。現実は言わずもがな、物語においてさえ語られない、語ることを許されなかったものたちの声を、わたしはそのままにしておきはしない。“朝鮮飴売りの少女(碧木愛莉)”とクレジットされた、名乗ることさえ許されなかったその人の名は”キム・ソンリョ”である。

 


 

 「朝鮮人なら殺してもええんか!」行商の支配人沼部新助(永山瑛太)によるこのセリフがこの映画の根幹部分です。まさにここに全てが集約、凝縮されている。この人たちは朝鮮人ではない、日本人を殺すことになるんだぞ、と言って群衆を抑えようとするものを含めた“日本人”に向けられたその言葉を、いまだわたしたちは自身に突きつけなければならないという現状があります。しかしまたその言葉でさえ“日本人”によるものだという権力関係もみのがしてはならないことだと考えています。

 全くの余談なのですが、咲江のことについてひとつ。「(夫に)化けて出てきてもらいてえ。会いてえし」と倉蔵に向かってつぶやく咲江のその姿に、表出することをためらいながらも、こちらにみせているよりももっとずっと奥のほうに確かにある彼女の想いが垣間みえるような気がしました。

 

【参考文献】

・『証言 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』/奥崎雅夫(編)(ちくま文庫

・『福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇』/辻野弥生(五月書房新社)

・『全国水平社1922-1942 差別と解放の苦悩』/朝治武(ちくま新書