『哀れなるものたち』 !ネタバレ!

 映画『哀れなるものたち』の内容に言及しています。そして使用する言葉によってかなりしんどく感じる方もおられると思いますので、そのときは無理はせずすぐに読むのをやめていただいたらと思います。

 

 監督/ヨルゴス・ランティモス 脚本/トニー・マクナマラ『哀れなるものたち』を観ました。昨年からの各所での高評価といいかなりの話題作ですね。批評やレビューなどおそらくその大半は肯定的意見でしょうし、わたしも多くの部分で肯定的に受け止めたのですが、しかしなかなかどうして受け入れ難い程度の描写がありましてその批判を中心に少し書こうかなと思います。

 

 少なくともわたしの知っているものと大まかには同じようにみえるがしかし少し違う世界。時代的には十九世紀末あたりのようだが、しかしやはり少し違う。この違いがとてもわくわくしたり不気味だったり恐ろしかったり美しかったり、ことごとく映画を観るこちらの側を常に翻弄し続ける力をもつとても刺激的なもの。しかし残念なことにわたしの知る世界と同じようにこの世界にもセクシズムがある。

 主人公ベラをあの手この手で支配し操ろうとする男性たち。ゴッドは全く自身の勝手な好奇心からベラを“作り出す”ことのみならず、実験結果を観察することに余念がない。その助手の形でベラに近づくことになるマックスにしても、ゴッドの実験に加担しているばかりか(ゴッドにそそのかされてではあるが)ベラと婚約し、家父長的にベラをコントロールできる立場として振る舞う。そこに割って入ってくるダンカンも、ジャスミンを誘うアラジンよろしく世界を見せようとベラにそう提案しておきながら、結局自分の支配下で自分の都合の良い存在であるようにベラに要求する。しかしベラはそれら全てに対してあるときには拒絶し、またあるときには最初からそのような規範の中にはいないのだとばかりに蹴散らす。そんなベラの様子が痛快なのと同時にとても心揺さぶるものとして映るのは、セクシズムという構造を共通してもつふたつの世界のこちら側から、いうならばベラに対するアライとして別の世界からそれを観ているわたしが共感しているからだ。

 物語中盤、船旅の途中で知り合うハリーにベラは“世界”をみせてもらう。非常にメタフォリカルな城砦のような建造物で表現されるその“世界”では、上部にいるベラたちの優雅さとは対照的に下部にいる人たちは貧困に喘ぎ苦しみながら生きそして死んでいる。それを知りながら“羽根の布団で眠る”ことにこの世界の歪みや矛盾や残酷さ、そして何より自身の特権性をベラは認識することになる。これはホワイト・フェミニズム的な立場からの脱却かあるいはその否定として機能し得る場面だ。しかしわたしはこの先ここから大きく端折って終盤辺りの展開について言及することになるのだが、それとこのホワイト・フェミニズムの否定というあり方が、その立場的にもかなり矛盾するものであることをまず指摘しておきたい。

 ベラとして生まれる前に結婚していたアルフィーという軍人が現れてベラは共に生活することになる。ベラのクリトリス切除を企てるアルフィーと対決したベラは、その結果負傷した彼をマックスの元に運び込んで治療を依頼する。そのときベラはアルフィーを殺すということも可能だったろうがそうはせず“進歩”させる道を選ぶ。それが最後のオチという形になる、ヤギの脳を移植させられたのであろうアルフィーが葉っぱをついばむ姿だ。かなりコミカルに描かれるこのカットにわたしは非常に落ち込んだ。その前の手術の場面でヤギの顔のカットが挟まるのだが、その時点でまさかそうではないかと予感させておいて、案の定最悪な展開で予感がそのまま現実になった。

 まずこの映画でセクシズム、家父長制は一貫して批判対象となっている。生命や身体に対するあまりにも傲慢な態度や、他者の尊厳を踏み躙ってでもそれを支配下に置いておこうとする思想、それらをずっと批判していたはずである。その上でこの展開はあり得ないだろう。またわたしが生命や身体というのは人間かどうかに限った話ではない。なぜヤギが“犠牲”にならなければならないのか。人間中心主義といえばこれはあまりにも酷い発想と言わざるを得ない。

 そしてゼノジェンダー*1について。クィア映画だとおそらく一般にもそう認識され、わたしも観た上でそうであると強く思う作品だけにあまりにもこの表現は攻撃的にすぎる。寓話であるからという問題ではなく、あるあり方であれば尊厳を否定されることも可というメッセージに十分なり得るこの表現を問題としている。特定の属性やアイデンティティを無化しているだけにとどまらず、動物的な動きを模倣することをオチとして笑いで消費することの暴力性を認識すべきだ。そしてなぜそれがそもそも“報い”のようなものとして成立し得るのかという問題がある。動物のような動きがなぜ嘲笑の対象なのか、惨めなものとされるのか、なぜそれが“罰”なのか!作り手だけでなくこれは受け手のわたしたちの認識も併せて批判的に検討されるべき問題だと思う。

 そして先に述べたホワイト・フェミニズムの問題である。それと関係の深いいわゆる監獄フェミニズムについての批判は過去にしたので繰り返さないが、こうした厳罰主義の行き着く先というものは畢竟マイノリティに対する抑圧の強化だ。差別や暴力や抑圧が個人の問題として矮小化して語られるとき社会的構造の問題は確実に覆い隠される。構造に着目されなくなってしまえば、それこそホワイト・フェミニズム的なものどころかもはやセクシズム批判だって到底不可能だ。交差性を念頭においた語りもなされることはないだろう。誰か特定のものを罰したところで何も解決はしないし、そのような評決を下しそれを実行できる権力をもつ自身の立場の暴力性をこそ認識するべきだ。このように自己の特権性なり加害性なりを認識したはずのベラとその後の行動があまりにも矛盾しているものとなっている。

 付け加える形になるが、これは日本の問題として部落差別との関係から大いに複雑な気持ちにならざるを得ないところもある。“よつ”という言葉があるように、非常に強い侮蔑的意図を示すときに獣と関連させる差別語は実際に存在している。もちろんそれだけでなく差別語と一般になされていない語の中にもそうした表現はある。しかし繰り返しになるが、わたしは尊厳について“人間の”と特にこの場でそのような枕詞をのせるつもりはない。相手を貶めようとする行為も、それに獣を利用する考え方もどちらも批判する。尊厳に対する向き合い方としてわたしはそうした態度を示したいと思う。

 

 だいぶ批判的になりましたが、しかしいいところももっと語りたいのはあるんですよ。めっちゃキャンプな画作りとかぐにゃぐにゃのレンズとか作り物っぽさによる不穏さとか。ちょっと『カリガリ博士』みたいだなと思ったり。すごく人工的なもの盛りだくさんなところに森のシーンなんかが挟まって、しかしそこでもパンフォーカスあんまり使わないというか特に寄りの画だと絞り全開のあの感じがまた人工っぽさを生むのかなとか。フレアの使い方も好きですね。あれもだから撮ってる感の効果ありますよね。って無駄なこと書いときながらやっぱり批判批判批判という気持ちが襲ってくるこのモヤモヤはどうしようもないってところですね。

*1:「ヒトの性別理解の範疇を超える性別のありかた。動物や植物、その他の生物やものなどとの関係を用いた、性別の分類や体系をつくることを重視する」と説明される性別のありかた。以下のURL/LGBTQ +Wikiより引用

https://lgbtq.fandom.com/ja/wiki/ゼノジェンダー