「監獄」からの解放

 これはあるフォロワーさんのツイートに関連してつぶやいたもので、特に何らかの反響があったわけでもなんでもないものなんですけどこれに関係した内容を。

 

 わたしは厳罰主義に反対なんですけれど、どうにも個人的に許容しかねる問題が起ったときにそちらに傾く感情というのは理解できるものですし直ちに否定はしません。ただそこで少し立ち止まって、それが実に正しい結果を招き得る行動なのか考えてみる必要があると思っています。

 まず関連することで実名報道について考えてみるとその弊害というものはとても大きいです。実名で報道された被疑者のみならずその関係者、特に家族などの血縁関係にあたる人たちにも凄まじいバッシングが浴びせられたという例は枚挙にいとまがありません。ただでさえ血縁関係というものに多くの比重を持たせる制度があり、またそういう観念が支配的な社会ですから、そうだと認識されたが最後酷い暴力の的とされるだろうことは想像にかたくないことでしょう。そしてこうした報道の大半が発表報道の手法をとっているので、それはすなわち相当程度に警察などの権力による恣意的な操作がなされています。差別的な意識からの見込み捜査の段階でマスメディアが被疑者の実名を発表した例もありますし、それによってまたさらに差別や偏見が助長され、たとえその後冤罪であったりその可能性が高いことがいくら報道されようとも、既になされた人権侵害を取り消すことなど当然ですがもはや不可能なのです。

 わたしはツイートの中で“懲らしめ”と表現しましたが、その“懲らしめ”というものが実名報道を正当化する理由にもなっています。裁判官がよく“社会的制裁”という言葉を判決文に盛り込んだりしますが、実名報道もその制裁の一部なのだとこれはメディア側も認めいていますし、何より犯罪抑止という点も付け加えてそれを正当化しているという事実もあります。抑止効果というのもこれは死刑制度の問題とも繋がってくるのですが、それが“ある”と証明することは非常に困難です。一方でなんとなくあるような気がするという社会的なバイアスは“ある”でしょうが。ちなみに死刑制度に限定したことですが、それを廃止すると殺人等が増加したというデータは皆無です。死刑制度の話となぜ関連づけたかというと、やはり厳罰という“懲らしめ”が排除の理論と通底しているなと考えたからなんです。前にそんなことを書いたのでそれは以下で。

athalisawali.hatenablog.com

 “懲らしめ”は何ももたらしません。それどころか構造的問題を覆い隠しますます差別や暴力や抑圧が蔓延る、そんな社会に進んでいくことになるでしょう。加害者を厳罰に処することで溜飲を下げることはいくらでも可能でしょうが、それではどこまで行っても個人の問題へとことが矮小化され社会の問題となる日はいっこうに訪れません。

 この厳罰化・主義についてフェミニズムでは監獄フェミニズム(カーセラル・フェミニズム)という語を用いて長年批判的に言及されてきました。それはいわゆるホワイト・フェミニズム*1との関係からも批判されています。監獄における暴力とジェンダーセクシュアリティ、人種などの関係性や、レイシャルプロファイリングにみられる警察による捜査段階での偏見や差別、さらに前述のメディア報道に関してもジェンダーセクシュアリティ、人種や社会的階級などと絡み合った偏見や差別などの問題が指摘できます。交差性(インターセクショナリティ)、セクシュアリティや人種、社会的階級などを踏まえた権力関係に向き合わず、個人と個人の極めて表面的な二項対立に押し込めて問題をうやむやにしてしまうという危険性をも同時に含んでいるのです。

 監獄フェミニズム批判は(監獄)廃止主義(アボリショニズム)とも深く繋がっています。監獄というシステムはあらゆるマイノリティにとって常に脅威であり続けています。またジェンダーセクシュアリティ、人種、難民や移民など、交差性の観点がここにおいても重要です。さらに産獄複合体と批判的に言及される監獄と資本主義の合体というものは、決してドメスティックなものではなくグローバルな問題として存在しています。その顕著に表れたものがパレスチナにおけるアパルトヘイト民族浄化、虐殺を支える基盤としての監獄とそのシステムの問題です。イスラエル国家による何千人ものパレスチナ人の拘束と拷問はG4Sというグローバル警備企業によってなされてきました。つまり今まさに起きているイスラエルによる虐殺行為を何十年もかけて準備し支持してきたもののひとつに、監獄と資本主義の複合体システムがあるわけです。

 最終的にアボリショニズムに言及したのも、これは初めに厳罰化反対だと言ったものと繋がる、それは構造的意味でも思想的な意味でも十分にそう言えるものだとわたしは思うからです。この構造を解体することは簡単なことだとは思っていないけれど、例えばそれは“懲らしめ”の感情を手放すなど全く個人的な実践から始められることなんじゃないか。それを逆に強固にする言説にはひとつでも多く異を唱えたいと思っています。

 アンジェラ・デイヴィスは、レイシズムやセクシズムなどあらゆる支配的構造に対処できなければアボリション(廃止)を前進させることはできないと言いました。暴力を手中におさめる権力によって作られ管理された監獄システムなどではなく、わたしたち自身によって作られるコミュニティで構成される全く新たなシステムが、あらゆる意味での「監獄」からの解放には必要なのです。

女性に対する暴力と最前線で闘っている人たちは、アボリション運動の最前線でも闘うべきだと私は思います。そして、警察による犯罪に反対する人々は、家庭内暴力ー家庭内のものとして構築されている暴力ーにも反対すべきです。公的暴力と個人的、あるいは個人化された暴力との関連性を理解すべきなのです。

アンジェラ・デイヴィス/フランク・バラット 編/浅沼優子 訳『アンジェラ・デイヴィスの教え 自由とはたゆみなき闘い』河出書房新社(P.196)

 

【参考文献】

カイラ・シュラー/飯野由里子 監訳/川副智子 訳『ホワイト・フェミニズムを解体する インターセクショナル・フェミニズムによる対抗史』明石書店

アンジェラ・デイヴィス/フランク・バラット 編/浅沼優子 訳『アンジェラ・デイヴィスの教え 自由とはたゆみなき闘い』河出書房新社

ショーン・フェイ/高井ゆとり 訳『トランスジェンダー問題 議論は正義のために』明石書店

クォンキム・ヒョンヨン 編著/影本剛、ハン・ディディ 監訳『被害と加害のフェミニズム #Me Too以降を展望する』解放出版社

ベル・フックス/野﨑佐和、毛塚翠 訳『ベル・フックスの「フェミニズム理論」ー周辺から中心へー』あけび書房

浅野健一『犯罪報道の犯罪』講談社

*1:主に中産階級以上の白人女性によって牽引されてきたフェミニズムのこと。特にそれらを批判する意図で使用される語。