記憶と想像と変化

 いつかのどこかの風景が目の前に現れる。そんな魔法のような力が音楽にはあります。もういないはずの、どこかの階段の踊り場や体育館のすみっこなんかにうずくまるわたしにもう一度ならず何度でも会える。そんな場面へとわたしを誘う多くの音楽がある。わたしにとってそのひとつがサム・クックの歌なんです。

 なかなかうんざりしている話があって、サム・クックというと決まって“うーん。ハーレム・スクエアはいいよね”みたいな反応。これはいったい何が言いたいのかというと『Live at the Harlem Square Club, 1963』というライブアルバムがありまして、あの激しさ、情熱的なパフォーマンスなどと比較して特にスタジオ録音におけるサム・クックに感じるのは“ものたりなさ”だということなんですね。

 『Live at the Harlem Square Club, 1963』!!これは全く世界最高の名盤であり、その時代の彼のイメージに合わないとリリースまでに二十年の間隔があるという背景もおそらく魅力となってその人気は不動のものとなっています。その評価に異論などもちろんありません。しかし本当にそれと比して他は“ものたりない”のかというと全く違います。スタジオ録音にも本当に素晴らしく情熱的で感性豊かで深みのある歌声や演奏が収められていますし、なにより彼の最大の特徴であるジャンル横断的な豊かな音楽性というものはスタジオ録音の音源でしか存分には味わえないのです。

 そもそもその激しさを求めるという傾向なんですが、なにかロック的なものを良しとするあるいは称揚する立場からの意見のように思えます。無意識に権威付けしているのではないかとすら感じるそんな空気は、たしかに十年や二十年ほど前までは支配的に流れていました。それもなにかマチズモやミソジニスティックなあれを感じなくもないのですが、まあ今さらそんなことを取り沙汰したところで無意味なので肝心の楽曲について書こうと思います。

 

 アルバム単位でいきますとまず『Ain't That Good News』。これが一番曲のバラエティという意味では豊かじゃないかしら。表題曲のような軽快なR&Bからミドルテンポのグルーヴィな曲、ジャジーな曲からなんと言っても“A Change Is Gonna Come”という代名詞的名曲まで収録されていて、その幅の広さはもちろんのことどんなジャンルでもスタイルでも“サム・クック”にしてしまうその力量たるや比類なきものです。

 『Twistin' The Night Away』も捨てがたい。いや捨てんなってくらいの名盤なんですけど、コンセプトアルバムとまではいかなくとも、ある程度流行のツイスト的なロックンロールに全体が統一されています。これも表題曲が有名ですが、アルバムバージョンの“Sugar Dumpling”が素晴らしくグルーヴィでドライブ感がある名演ですね。サム&デイヴのカバーで有名な“Soothe Me”も収録されています。

 マイフェイバリットなのが『Night Beat』。これはブルースアルバムと言ってもいい内容です。ビートルズゲットバックセッションでもお馴染みのビリー・プレストンが参加していて非常に素敵な演奏を聴かせてくれるのですが、タイトルの通り夜にゆっくりと浸りながら聴きたいなと思わせるアルバムです。一曲目の“Nobody Knows The Trouble I've Seen”なんですけど、こんな美しい歌声をわたしは他に知りません。特にラスト部分のファルセットなんてこの世のものとは思えないほどの美しさ。そして“Little Red Rooster”。これはブルースのスタンダードなんですが、このビリー・プレストンのオルガンが冴に冴えていてズンズン心震わされます。非常に素晴らしい。

 という感じでバーっと羅列しただけの駄文となっていますが、これだけではなくてまだまだシングルの素晴らしい曲やソウル・スターラーズ時代のドゥワップやゴスペルなど本当に色とりどりの名演をこの世に残しています。

 

 とここまでがまあだいたいそこいらの音楽雑誌に書いてありそうなよくあるやつですよね。そんなのもすごくいいと思いますし、わたしもライナーノーツなどに十分影響されている口ですから。ただ、大抵そういうのは差別や人権の話とは切り離して書いてあるんです。全部とは言えないにしてもほとんどがそう。それにもイライラするんです。だからちょっと書きます。

 公民権運動とサム・クックというテーマは様々なメディアで既に論じられています。例えば最近だと『あの夜、マイアミで』という映画があります。あれはフィクションですけれどしかし彼の葛藤や矛盾や決断などがうまく表現された、サム・クック批評として大変おもしろい作品でした。当時のアメリカの黒人ミュージシャンの置かれた状況といえば、あのロックンロールの別名チャック・ベリーですら白人のコントロール下で金銭的にも苦しんだと言われています(だからこそ『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は批判されるべき映画なのです)。そんな状況を変える(Change)ために彼がどれほど苦しんだか、傷付いたか、それは想像をはるかに超えて壮絶だったことでしょう。

I was born by the river

In a little tent

And just like the river, I've been running ever since

 It's been a long,a long time coming but I know

 A change gonna come

(訳)

ぼくは川のそばで生まれた

小さなテントの中で

まるでその川のように、それからずっと流れいる

とても長くかかったけれど、必ず変化はやってくるんだ

“A Change Is Gonna Come”の一節です。ブルースはもちろん、ラングストン・ヒューズを想起させるような黒人文学の系譜としてまたそれらへのリスペクトも強く感じさせる非常に奥行きのある歌詞です。差別や抑圧への憤り、アメリカという国家から受ける虐待への怒り、これほど長くかかった時間に反して変化(Change)は訪れず、しかしその中でも変化(Change)を必ず実現させるために闘う決意。それが素晴らしい歌声となって最高の傑作へと昇華されています。

 十代や二十代の頃、サム・クックを聴きながらこんな何十年も後の世代にましてや日本なんかで夢中になって聴いている人間がいるだなんて彼は想像もしてなかったんじゃないかな?なんてそんなことをよく考えたりしていました。しかし今“A Change Is Gonna Come”を聴くと、この曲がいかにわたしをも救ってきたのかに気付かされるんですね。元々の背景や歌詞の意味を無化したりしてはならないのですが、それにしてもより広く解釈が可能な書かれ方がされているのも事実です。それは様々な特に周縁化された人たちやその状況を当てはめて解釈することができるものに、意図は別としてそれらを受け入れることができる形になっているんですね。そうしてわたしだけでなくどれだけの人たちをこれまで救ってきたものだったろうかと思うんです。きっとサム・クックは、変化(Change)にむけて一緒にやってかないか?とわたしにも手を貸してくれたはずだと、今はそんなふうに思っています。

ふりむくんじゃないよ、と。