反日的狼煙

日帝は、36年間に及ぶ朝鮮の侵略、植民地支配を始めとして、台湾、中国大陸、東南アジア等も侵略、支配し、「国内」植民地として、アイヌ・モシリ、沖縄を同化、吸収してきた。われわれはその日本帝国主義者の子孫であり、敗戦後開始された日帝新植民地主義侵略、支配を、許容、黙認し、旧日本帝国主義者の官僚群、資本家共を生き返らせた帝国主義本国人である。これは厳然たる事実であり、すべての問題はこの確認より始めなくてはならない。

 

 まず最初に正直に言及しておかなければならないと思うのは、学生運動新左翼の運動に付与された暴力的イメージに、特にマスメディアで今もなお盛んに喧伝されているそれらのレッテルにわたし自身も大小はともかく影響されているであろうということ。そういったものを拒否し抗う意思を一方では持ちながらも、わたしの中にある忌避意識というものはたとえそれが権力によってある意味で植え付けられた仕方で形成されたのだとしても、疑いようもなく否定できないものとして確実に存在している。

 松下竜一『狼煙を見よ』*1を読んだ。東アジア反日武装戦線“狼”を中心としたルポルタージュである。自覚さえしている偏見から生じた忌避意識を引きずったままの格好で、果たしてわたしに何が理解できようかという不安も少々感じながら本書を手に取ったわけだが、はたしてそれはわたしの不明をより明確に浮き彫りにさせる内容であっただけに止まらず、あまりにも剥き出しのままの原石のような言葉と思想と行動の数々にわたしはとてもショックを受けてしまった。もしかすればそれはわたしが避けて通ることができなかったはずのものではなかったのでは、という根拠のない予感のようなものがあったのだが、実際それは的中した。

 

 冒頭に引用したのは『腹腹時計』と題された『都市ゲリラ兵士の読本Vol.1』に書かれる“問題提起”その1。これは大道寺将司によって書かれた箇所だが、“すべての問題はこの確認より始めなくてはならない”とあるように、この問題意識こそが“狼”ひいては東アジア反日武装戦線の思想の根幹を成すものと言っても差し支えない最重要部分である。続けてその7には以下のようなことが書かれている。

 われわれは、アイヌ・モシリ、沖縄、朝鮮、台湾等を侵略、植民地化し、植民地人民の英雄的反日帝闘争を圧殺し続けてきた日帝反革命侵略、植民史を「過去」のものとして清算する傾向に断固反対し、それを粉砕しなければならない。日帝反革命は今もなお永々と続く現代史そのものである。そして、われわれは植民地人民の反日帝革命史を復権しなくてはならない。

 このように日本帝国主義植民地主義を今なお続く問題として捉え、“「過去」のものとして清算する傾向”という問題の矮小化や歴史歪曲的な言説に対しても”断固反対”するこの表明は、最悪な事態ながら今日の日本社会においても同様に通用する提言でもある。繰り返すがこれは実に最悪な事態である。

 ここで整理しておきたいのだが、“東アジア反日武装戦線”とはそういう名の組織というよりも、“東アジア反日武装戦線という闘争とその思想”といった方が実態に近い。それに共鳴したものらと各グループ(狼、大地の牙、さそり)の行動があったという理解をわたしはしている。引用した『腹腹時計』の問題提起からも確認できる通り、”植民地人民の英雄的反日帝闘争”が言い換えれば“東アジア反日武装戦線”そのものなのであり、先に挙げた各グループはそこに立場性という概念を当てはめたものとして解釈できる。つまり組織そのものよりも、個人とその思想の方により重心がある。また積極的にオルグなどを展開しないというのは“都市ゲリラ”としての手法なのだろうが、その点も他の左翼組織とは一線を画していて、かなりアナキズムに近接する思想とあり方であることもその特徴のひとつだ。

 

 今年(2024年)に入ってすぐに流れた報道によって、連日のように東アジア反日武装戦線のことや連続企業爆破事件のことがマスメディアやネットメディアで話題になっていた。多くのデマや憶測に基づくいい加減な言説が同時多発的に吹き荒れている状況の中で、特にわたしが怒りを禁じ得なかったのはミーム的な仕方で茶化したりバカにしたりおもしろおかしく扱うネット上に溢れている様々な仕草だった。さらに“極左暴力集団”や“テロリスト”という言葉で罵倒したり侮辱したりなど、そうした言葉を並べて否定することを繰り返すか、果ては“なぜ半世紀もの間潜伏できたのか”という想像をみんなで話し合ってばかりいて、肝心の主張やその中身にはほとんど踏み込まず触れもしない、そこに何か奇妙な違和感とともに空恐ろしい感じさえしていた。

 報道でも何度も繰り返し取り上げられていた三菱重工本社爆破事件。実はこれ以前に“狼”が計画していたのは天皇裕仁を爆殺することだった。本書を読む中でこの事実を知ったとき、わたしの抱いていたいくつかの疑問点が解消された思いがした。というのも、三菱は帝国主義植民地主義の先頭を日帝時代から歩んできた企業であることは事実だが、しかしなぜまずそこなのかということの理解が追いつかない感じがしていたからだ。天皇暗殺計画は結果的に頓挫することになり、韓国で起こった“文世光事件“の影響もある中で焦燥感に駆られながら三菱重工本社に狙いを定めることになったのだが、畢竟日帝を粉砕するということは、天皇制の解体を避けて通れる問題のはずはなかったわけだ。至極当然のことではあるのだが、ここがひとつの原点だということは何度も確認しておきたいとても重要な事実である。

 大道寺らを取り調べている際にそのことに気づいた検察は当分この事実を秘匿しておこうと決める。天皇を狙う集団が存在するなどとは世の中に発表できないと考えたのだろうが、その考え方や空気は今も変わらずこの社会を包み込んでいる。否、むしろ現在の方がよほど過剰に反応しているようにさえ思える。“不敬”などという言葉を臆面も無く投げつける、そんな光景に特に違和感を感じないほどまでに天皇イデオロギーが浸透しているといっても誇大な表現ではない。そんな何かを隠している感じ、あの集団が何を訴えていたのか正確には伝えないように伝わらないようにしか話さないメディアの態度、そういったものに奇妙な違和感や気持ち悪さ空恐ろしさをわたしは感じたのだろう。

 しかし天皇制解体のための天皇暗殺という手段をわたしは強く批判するし、その行為そのものは否定したい。死刑制度の問題とも繋がるが“死んで良い”あるいは“死ぬべき”存在などはいない。“殺す”べきは天皇という権威なのであって、それをまとった生命の方ではないはずだ。わたしたちが“殺す”べきなのは身分制度としての天皇制である。しかし天皇暗殺が即天皇制廃止につながるわけではないこと、さらに左翼弾圧を強める結果を招く恐れがあること、それでもやはり戦争責任や植民地主義に対する責任をごまかしてきたという矛盾や、天皇イデオロギーに支配されている状態を顕在化させる必要があり、それには天皇を攻撃するという選択は必然であったことという大道寺が著者に語った考えをわたしは否定することはできない。それどころか最終的に取るべきだと考える手段の違いはあれど、その根本的思想については全く同意する。暗殺どころか少しの批判もはばかられるような空気がここまで浸透し支配している現代においては、なおのこと日帝天皇イデオロギーの差別性や暴力性を明らかにし、それを解体していかなければならないことを示していく必要性はより高まっていると考える。

 

 

 ここまでわたしは被害にあった方たちのことについては言及していない。『狼煙を見よ』を読んだ後の判断としてはそれが的確だとわたしは考えているのだけれど、それに関わる重要な箇所を一部引用することにする。

大道寺将司はその取調べ過程や法廷で、死者に対する謝罪を表明していない。そのことから彼には反省や心の痛みがないのだといわれたりする。だが国家権力の前で詫びないということと、彼の本心が詫びているのかいないのかということとは、まったく別なことなのだ。*2

 そもそも一連の事件を“犯罪”という一言で片付けてその背景にあるものをみようともしない態度をとりながら、しかし一方で謝罪や反省を促しての断罪は延々と続けられるこの偏りというものはどう説明されようか。わたしたちに向けられた問いは再び蓋をされ、それに目を向けることは周到に回避され続けることになるだろう。それがどれほど権力を利する行為なのかは言うまでもないことだが、それもまたわたしたちに突きつけられた問いの中に含意されていたことでもあったろう。わたしたちとの間に権力を介在させることを拒否する闘いとしてみれば、それはむしろわたしたちの方がより実効性としての力を有していたはずではなかったろうか。

 また”大地の牙”の浴田由紀子は、キム・ミレ監督『狼をさがして』の中でかつての闘争を踏まえて自身の考えを以下のように語っている。

「敵を打倒し、破壊することよりも、味方を増やし、味方の力を育て作り出す戦い方をしたい。それはもう誰も死なせない革命でもあるはずです。(中略)(それは)同時に私自身がパレスチナ革命と出会う中で学んだ、革命とは何か優れた誰かが理想の社会のかたちを作って人々に与えることなのではなく、いま現在、生活の場からの人と人との関係を変えていくことなのだ、という思いを実践することでもありました」*3

 巷では誰かの思想や行動を批判するときに愚か者のような見方や扱いをしてそれを一蹴する態度がよくみられるが、しかしそれは他者の実に様々な経験を軽んじる全く傲慢で侮辱的な唾棄すべき行為だ。勝手に自分たちが作り上げた像を使って実存を弄んでいるにすぎない。存在しない場所に存在しない“悪”を仕立て上げたうえに、それを存在するものにあてはめて好き勝手に罵り排除することはなぜ許容され得るといえるのか。最低限、あるものをみて評価することができる自分の権力性や暴力性をまずは自覚するべきである。このような考え方に浴田自身が至るまでのことはわたしにはわからない。しかし想像しかできない場合であったとしても、書かれたことや語ったことをもとに可能な限りわたしは真摯にその背景と思想とに向き合いたい。

 

 

 松下竜一は自身の最初の作品『豆腐屋の四季』が世間に喝采を持って迎えられたことを次のように分析している。

全国のキャンパスにバリケードが築かれ、ヘルメットの学生達があらゆる権威を否定してゲバ棒武装し叛乱に立上がっていた時期である。私が模範青年としてもてはやされる意味は、彼らと対照するとき鮮明に見えてくる。零細な豆腐屋としての分際を守り、黙々と耐えて働いているおとなしい若者に誰もが安心できたのだ。*4

 あるものを恐れ排除することでは解決されなかった不安は、その対になる“模範生”を見出したものから得る安心によって埋め合わせられる。“極左暴力集団”や”テロリスト”と言ってあるものらを断罪し、自らとそれを切り離す行為によっても取り除けず、むしろぽっかりと開いたままのその口がますますよくみえるようになってしまったほどの不安をわたしたちはまた別のあるもので埋めようとする。それは右翼的なものかはたまたリベラリズムか他の左翼であるのかなど様々だろう。しかしそうしている間中あらゆる問題を、自らにも突きつけられているはずの多くの問題をみんなみなくて済ませてしまっている。そんなことばかりをわたしたちは繰り返してきたのではなかったか。そのようにわたしは考える。

 

 反日という語がある種の罵倒語として機能しだしてから久しい。あたかも必然性を湛えた悪の概念かのような仕方でマスな空間でも頻繁に用いられている。中には反日本ではなく反日帝だと説明するものもあるが、いやわたしは反日本であってその何が悪いのかと思う。いまだにレガシー的に帝国主義を引きずったまま、植民地主義そのものの政治や思想が支配し、天皇制を護持して身分制度と家父長制を強固に維持する差別社会を作り出す日本に反旗を翻して何が問題だろうか。アイヌ琉球などの民族そのものを否定する言説。沖縄県の米軍基地や自衛隊基地問題セクシュアルマイノリティの権利回復運動やフェミニズムに対するバックラッシュ在日コリアンをはじめとする民族的マイノリティに対する排外主義的、人種主義的ヘイトスピーチ。障害者差別と能力主義、優生思想。枚挙にいとまが無いほどのこれら数々の差別とヘイトの根底に天皇制という身分制度と家父長制、それを基盤とした日帝帝国主義植民地主義がある。当然列挙したものだけではなく、直接的にはみえにくいが複雑に交差した結果生じている差別や暴力は無数にあるといっていいだろう。

 むしろ全ては反日の思想から始まるのだ。”すべての問題はこの確認より始めなくてはならない”。それは河岸の向こうにあるのではない。風の中にでもない。過去などでもなく、現在の、わたしたちのいるこのすぐそばで、この場所で、今上がっている、狼煙を見よ!