“議論”のまえにすべきこと

 今年の初めにKADOKAWAから出版予定だったある翻訳書が昨年12月に急遽中止されるという事案があった。あえて作者、作品名には言及しないが、そのトランスジェンダーに対する差別、憎悪扇動的な内容や明らかな誤情報、事実歪曲的記述などに多くの批判的指摘が既になされている書籍である。その中止までの顛末やその後のKADOKAWAの対応などかなり不誠実で無責任なものへの怒りはあれど、あのままの状態で日本で出版されることがなかったということにわたしはひとまず安堵していた。ところが出版社が産経新聞出版に変わる格好で出版される予定だという。この事態に大きな衝撃を受けた。

 なにせ「正論」を出している出版社である。そこからヘイト的内容の含まれる書籍が刊行されることには何の驚きもない。そんなことにではなく、ヘイトや差別扇動がまた広くなされてしまうこと、それを利用してまた別のヘイトや差別に繋げるものが現れること、そして“表現の自由”だとかでヘイトさえ認めようじゃないかと言い出すものまでが溢れることが容易に予想されてしまうこの現状におののいているのだ。そこから生じる動悸に焦り、その戦慄に押しつぶされそうになっている。

 ヘイトや差別扇動では、恣意的に選択した情報を並べて歪曲した事実をかなりセンセーショナルな文言を使って宣伝し惹きつけるという手法がよく使われる。件のヘイト本でもそれは同様だ。そうしたヘイターの立場からすれば“議論”という構図を作り出した時点でひとつの目的は達したということである。そのような構図を作り出すことで、議論の俎上に載せるに値するある種の正当性のある説かのように印象付けることにも成功するだろう。だからこういった言説に対して“議論”という場を作ったりそれにつきあったりしてはならないしその必要もない、ということはよく指摘されるところである。これはまた歴史修正主義の場合とかなり似てもいる。

 わたしも基本的にそれは全くその通りだと思うのだが、しかしそもそもがそのような言説を公にした段階で、ヘイト本ならば出版された時点で、その構図は完成してしまっていると考える。対抗するための“議論”に乗り出す以前にもう“議論”は始められているわけだ。発言するものや出版する企業の規模など、その権威性が高まれば高まるほどに“議論”として認識される可能性も高くなるだろう。そうなれば憎悪を向けられるものやそれに対抗するものらは否応なく、場合によっては不意打ち的に“議論”に参加させられ一方的にジャッジされる。ヘイトや差別扇動にはその言説そのものの中身に加えてそういった暴力性も含んでいるのだ。そこに存在しているものを勝手にある枠組みの中に引きずりこんで「おいお前言われてることに言い返してみろ」とやりだすのだ。たまったもんではない。

 そして”表現の自由”という文句を使ってのヘイト擁護をするものたちに至っては、全く実態を捉えていない浅薄な考え方だと言わざるを得ない。先にも言及したが、そのセンセーショナルな仕方での扇動による力に対抗することは並大抵のものではない。先に出されたものが与えるインパクトを後から出す対抗言説で抑えることはかなり困難であるし、それをひっくり返すことはほとんど不可能といっても良い。この事実は何度も何度も繰り返されてきたヘイトや差別扇動とそれへの対抗の歴史をみたならば明らかなことだ。例えば共通点の多い歴史修正主義でいえば、関東大震災時の朝鮮人虐殺否定論や南京事件否定論など、そもそも“論”というのも憚られるほどのデタラメがいまだに跋扈している現状。いわゆる嫌韓嫌中本や〇〇特権のようなことを吹聴する本などにもいくらでも対抗言説やそれらを批判する書籍はある。しかしいまだにそれらは力を持っているといえばそれは全く過小評価で、権力者がそれを利用したり公の場で堂々と宣うという始末である。わたしたが前提としなければならないのはそんな腐った社会なのだ。

 そもそも差別に反対する立場の言説が弱められている社会的背景も考慮されていない。強さや勇ましさが称揚されそれに反するとみなされるものは貶められる。平和主義的思想を“お花畑”と揶揄することもその表れのひとつだろう。表現の自由だ、言い返してみろ、と言われたところでそれをやるのは誰が?どこで?である。そこには圧倒的な権力差がある。あたかも水平関係にあるようにみせかける詭弁だ。“焚書”などというのはもってのほかである。そこにある権力関係をあからさまに逆転させている。例え何かしら反論したところで、ヘイト本を買って読んだものがその反論を読むとも限らない。しかしそのコストを負担させられるのはいつも圧倒的に力を奪われ続けているものらである。何よりまずなされなければならないことは、権力を持つものがヘイトを拡散することをやめること。それだけである。