4月1日に

 沖縄県中頭郡読谷村にあるチビチリガマ沖縄戦での”集団自決”とともにその名はよく知られている。わたしがチビチリガマのことを知ったのは中学生のときのある授業でのことだった。それは平和学習といった類のものではなく通常の理科の時間だったのだけれど、そのときの担当の先生がまるまる授業ひとコマかもしかしたらそれ以上の時間を使って、ときにスライド写真などもまじえながら沖縄戦と”集団自決”の話をしたことがきっかけだった。それ以前から知識として”集団自決”を知ってはいたものの、その場所の詳しい話や写真をみたこの時間は、確実にわたしにとっての画期だったと今でもそう思っている。

 二十歳のころ友人数人と沖縄を旅行した。それがわたしにとって初めての沖縄訪問だったわけだが、まるでその内容といえば絵に描いたような観光そのもので、またそれなりの人数だったこともあり組まれた通りの旅程を過ごして終えた数日間だった。しかしわたしはそれからの数年間、ただ観光をして帰ってきただけの自分に対するとてもがっかりした気持ちや、後ろめたい罪悪感のような感覚と後悔をずっと抱えることとなる。それは日本の琉球・沖縄に対する植民地主義や抑圧的政策、現在も続けられている周縁化や差別の問題における強者の立場として、まさに絵に描いたような搾取的態度を示してしまったそんな自分への幻滅と、また中学生のときのあの授業から受けた影響は明らかだというのに、わたしは一体なにをしているんだという嫌悪感が渾然となったものだった。

 それから十年ほどが過ぎてわたしはひとりで沖縄に行く機会を得た。例え独りよがりなことであっても今度こそちゃんと真剣に訪問したい、それが沖縄と“向き合う”ことになり得るのだと、沖縄戦の戦跡*1や資料館などを訪れるために事前に幾つかの関連図書を頼りに準備をし、最初に向かう場所をチビチリガマに決めて沖縄へと出発した。

 宿泊先の那覇市のホテルからレンタカーを走らせ読谷村へ。カーナビに案内されながらみえてきた道路沿の駐車場に停めて—まだ早朝なこともあってとても静かな中、目印の案内板の方へ進み階段を降りた。わたし以外に誰もいないその状況に少し緊張しながらゆっくりとガマの入り口に近づくと、そこには立ち入り禁止の看板とともに多くの千羽鶴が手向けられてあった。入り口のそばには金城實氏の作品「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」。その作品が作られた経緯とともに、ここチビチリガマで起きたことを伝えている追悼碑も建てられてある。

 1945年4月1日、米軍はここ読谷村から沖縄本島に上陸した。翌2日までにチビチリガマへ避難していた住民約140名のうち83名が”集団自決”によって犠牲になった。”「集団自決」とは、「国家のために命を捧げよ」「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」といった皇民化教育、軍国主義教育による強制された死のことである”と碑にはそう刻まれている。日本による植民地主義帝国主義軍国主義によってもたらされた犠牲。沖縄戦よりもっとずっと遡って、琉球を侵略し併合した大日本帝国の暴力から始まる歴史が、多くの沖縄のひとたちの生に死を強制した。その事実をこの場所はずっと伝え続けている。

 そうして数十分が経ったころだろうか、数名の団体のひとたちが階段を降りてきた。後でわかったことだが東北の方面から来た方々だったようで、ガイドの方の説明を熱心に聞いていた。実はわたしもちゃっかりその説明を離れた場所で聞いていたのだが、そのガイドの方というのが―これも後になって知ることになるのだが、知花昌一さんだった。するとこれから実際にガマの中に入って説明をするのであなたも一緒にどうかという、知花さんからの思いがけない提案をいただいたので、ありがたさと驚きとが入り交じった心持ちでわたしもついて中へと入っていった。*2

 ガマの中はライトを照らしていないと全く周りが確認できないほど暗い。さっきまでいた入り口付近とは全く違う世界かのように、その静寂さもまたひとつ段階が違うほど際立っている。ここにかつて140人ものひとたちが―と考えればどう表現しても不十分なほど、想像を遙かに上回る苦しみがあったに違いない。今でも多く残されている遺品となった容器や道具など、保存状態や大小も様々なそれらについての知花さんの説明を聞きながら、このまっくらな中に存在している生と、静寂の中にきこえる声とに圧倒されたわたしはその場に崩れるようにして泣いた。こんなつもりで来たのではなかった。“悲しい過去”のようにことを相対化して涙する自己満足のために沖縄に来たんじゃない。土足でズカズカと入っていくようにして、沖縄戦のことをその犠牲のことを沖縄の現地のひとに説明させるために来たんじゃない。そんな傲慢な態度を“内地”からきたものとして示さないように努めることが最低限と考えていたんではなかったのか。それらがあまりにも情けなく思え、しかし涙を止めることもかなわない自らを酷い嫌悪感が襲った。ここにわたしは来た、じゃあどうするのか。これをみた、そしてお前はどう考える。そう何度も何度も自分に問いかけながらガマの外へ出れば、先刻までいたそこもまた別の場所のようにすら思えた。そうこうするうちに次の場所へと移動する知花さんたちとはここでお別れとなった。

 今でも後悔しているのは、知花さんにはほんのお礼の言葉くらいしか伝えることができなかったことだ。自分の思いを何かひとつでも、全く完成されたものでなかったとしても少しくらいは言葉にしたかった。しかし今こうして文章にしてみたところで、ほんの少しだって語れていないようにわたしは感じている。あれから数年経った今も、そのときの気持ちを上手く表すことができないままでいる。考えてみればそれはわたしが沖縄について何か発言するときに抱く、いつも上手く表現できず何ひとつ答えられない状態や感情とも繋がるものだ。米軍や自衛隊基地に反対する立場を取りながら、では基地を日本で引き取ってはどうかという指摘には、それについて自らの言葉をまだ持ち合わせていないと言わんばかりにわたしは逃げてしまう。“加害者”ではなく“理解者”としてともすれば振る舞ってみせる自分の権力性に本当はいつも気づいている。向き合う。沖縄に向き合う。琉球に向き合おうとは言うものの、本当に向き合わなければならないのは自らのそうした権力性なのだった。

 沖縄に“向き合う”ことを考えて始めた旅は、向き合うべきは日本であり、自分の権力性の方であるということを明らかにした。今こうして書いていることもまた、権力性をまとって利用しているに過ぎないと批判されるとすればそれは全く的確だと思う。自身のポジショナリティ/立場性というものを意識することは、水平的な関係性を築いていくための基本的なスタンスとして常に維持されていなければならない。つまり何よりもまずは己はどうかと問い続けることこそが重要なのだ。要求されるのは、日本社会や自身が内包する植民地主義を暴きそれを解体することだ。チビチリガマに始まる沖縄滞在の間での、ゆくりなくも訪れた何ものにも変え難い貴重な出会いや体験は、何をみて感じて考えていかなければならないのかということをわたしに深く深く刻みつけてくれた。自らの植民地主義を無意識の領域から引き上げ、さらにそれと対面するということは想像よりも困難なことだ。苦しさを伴うことも否定しない。しかし、沖縄ー日本の関係を水平的なものへと正していくためには、必ずそこが原点となるということを決して忘れてはならない。

 

*参考図書*

大田昌秀(編著)『写真記録沖縄戦 国内唯一の“戦場”から“基地の島”へ』/高文研

•知念ウシ『シランフーナー(知らんふり)の暴力: 知念ウシ政治発言集』/未来社

•野村浩也『無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人 増補改訂版』/松籟社

•前田 勇樹 、古波藏 契 、秋山 道宏 (編)『つながる沖縄近現代史 沖縄のいまを考えるための十五章と二十のコラム』/ボーダーインク

 

*1:ここでは一般的に戦争と関連するものであると認知され得る土地や遺構等を指す用語として特に使用している。

*2:本文中にも記したが、ガマの中への立ち入りは基本的に禁じられている。シムクガマと併せての紹介と見学についての注意点等はリンク先の読谷村観光協会のホームページを要確認。

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