死刑制度に反対します

 当事者という言葉を使うことの難しさを感じる場面によく出くわします。差別や暴力の問題においては特にこれで誰かを切り離すことになっていやないかとか、ものごとを単純化しているばかりなんじゃないかとか、ある問題とは無関係なグループを作り出すようなメッセージとして機能してしまう可能性など注意すべき点が多い言葉です。それを踏まえたうえでしかしこの場合は当事者という言い方こそが重要な役割を果たすはずだと強く感じるときもまた多くありまして、そのうちのひとつが今回書こうとしている死刑や死刑制度について考えるときです。

 先日4月15日に、死刑の当日告知の違憲性などを問うたある確定死刑囚二人を原告とした国賠訴訟の判決が大阪地方裁判所にて出されました。結論としては原告の訴えが全面的に退けられる形でしたが、 判決の一部にあった「原告らは、現在の法令に基づく死刑執行を甘受すべき義務を負う立場にあり、執行方法の一部である本件運用だけを取り出し、受忍すべき義務がないと主張することはできない」という箇所にかなりの引っかかりを覚えました。原告が訴えていることは死刑執行の差し止めではなくその運用のあり方についてです。具体的には当日告知による尊厳の軽視など人権に関する点、異議申し立てを阻害されることの違法性および憲法第三十一条*1に照らしてそれに反していることなど、その運用の仕方にある多くの問題を指摘しています。しかしその口を塞ぐかのように被せられる“死刑執行を甘受すべき義務”という強い言葉。この表現の残酷さもまた言を俟たないものがあるのですが、こうしてある訴えを抑えつける主体に実はわたしたち一人ひとりがいるのだということと、わたしたちの方もまた抑えつけられ黙らされていることになっているのだ、という認識を持ってわたしはこれを解釈すべきだと思ったのです。

 まず、刑が確定しているか否かに関わらず死刑を言い渡されたひととわたしとの間にはどのような違いがあるのか、ということについて考えたときに、特に死刑を言い渡される経験をしたかどうか以外にその間に違いを見出すことがわたしにはできないということを明示しておきます。それはなにも個人差等を無効化しようとする主張ではなくして、わたしたちとは違うあのひとたちという語りの中に含まれる完全な断絶のニュアンスや排除の思想を共有できないということです。つまりわたしは―これは死刑囚に限定すべきことでもないですが―なにか“犯罪”や“犯罪者”について語るときに、わたしたちとは違うあのひとたちのような仕方ではなく、わたしたちの内のこととして捉え、語っています。いわば社会や何らかの集合体を形成するわたしたちという集団の中に存するある個人やある出来事としてそれぞれを考えているということです。

 社会の中のことだなんて当たり前じゃないか、ということもできるかも知れませんが、しかしわたしたちは何かえたいの知れない怪しげなわけのわからないもの、として特定のひとびとを排除する方向に容易に傾いてしまいがちです。そのことの危うさやそれへの批判、それに死刑についてのわたしの立場は過去記事に書いてある通りなので省きますが、さらにこれに加えて重要なのはわたしたちの当事者性の問題です。死刑制度を維持する社会を支えるわたしたちもこの問題の当事者なのだという事実はもっと共有されるべきです。最終的に命令する法務大臣の立場やそれまでの過程にまつわるものや機関など、法的に定められた制度や手続きなどを振り返るだけでも実に様々な面でわたしたちは死刑制度と関係していることがわかります。直接的なものでいえば裁判員制度被害者参加制度などの諸制度はより当事者性を明確に意識させるものでしょう。判を捺す、執行ボタンを押す、という行為はわたしたち一人ひとりが実際に深く関与していることなのです。どこかの誰かの仕業ではなく、その権力行使に加担するわたしたちの存在抜きには成り立たないものなのです。

 さらに例えば死刑賛成が八割を超える世論調査*2(これも権力による恣意的な操作がうかがえるものですが!*3)にみられるように、消極的にでも容認していればその態度も含めて賛成意見として政府に利用されます。死刑の実態が権力によって極度に隠蔽されていることも考慮すべきですが、この世論調査も含めてかなり多くのひとたちが死刑や制度について、厳しい表現をすればほとんど無関心であると言ってよいでしょう。権力としては消極的なものまで含めて八割賛成ということを盾に押し切れば、多くのひとたちには無関心でいてもらいたいはずです。関心を持たれると困るほどに過多なその問題点を隠しておきたい、それがこの極端なまでの秘匿性に現れているわけです。ですからそんな無関心をきめこんで済ましている様子や態度なども制度を支えるのに十分寄与しているといえるのです。批判は第一に権力にむけられるべきなのはもちろんなのですが、死刑に賛成しようと反対しようと例え無関心だということにしようと、全てわたしたちは死刑に関わる当事者なのです。

 これらを踏まえて判決文に話を戻すと、“死刑執行を甘受すべき義務”という言葉を使って文字通り甘んじて受け入れろと迫っているのはわたしたちだとも言えるのです。一度確定したのだから死んで当然、殺されて当然だという極めて恐ろしい残酷な言葉は、当事者性を勘案してみればわたしたち自身が発しているものだともみなせるのです。またこの立場を反転させて考えてみると、"甘受すべき"だとわたしたちもまたそう迫られる立場でもあるです。それこそ死刑であるか否かに限定したことではなく、権力による決定を"甘受すべき義務"を負うとされる対象には当然わたしたち全員が含まれているのです。そこに意思など関係ありません。どれほど厳しい負担が強いられようが考慮されません。甘んじて受け入れろと叩きつけられるだけ。そういう印象を植え付け浸透させる効果がこの判決にはあるし、それを期待しているようにすら感じられます。抵抗は無駄だから諦めろと何度も何度も繰り返し権力がその力を発揮させるうちに、自然と諦めの空気が支配していくという成功体験を積み重ねてこの国や社会は成り立ってきたからです。 例えば植民地主義レイシズムやセクシズムを支えてきた要素のひとつにその諦めの空気があります。あるときはそれを作り出し、またあるときはそれに抑圧されるわたしたちは常に問題の当事者なのです。

 少し話が飛んでいるように思われるかも知れませんが、あらゆる差別や暴力の連関性を顧慮すれば、植民地主義レイシズムもセクシズムも全て繋げて考えることができます。繰り返しになりますがそれらと闘うものを権力は何度も疲弊しきるまで抑圧してきました。それは過去も現在も変わることなく続けられています。死刑もそうした問題のうちのひとつなのです。つまり特定の誰かを排除し、強大な暴力を行使して力尽くで黙らせる。それはあらゆる差別や暴力と同じ構造をもつ同じ問題なのです。そうした構造をも含めて死刑制度を解体していくためには、死刑制度に関する当事者性の認識が極めて重要なのです。"死刑を甘受すべき義務"ではなく"死刑制度の解体・廃止を訴え実現すべき義務"ならば、まさに当事者としてそれを積極的に引き受けたく思っています。

 

 死刑に関する裁判としては他にも残虐性や再審請求中の執行の是非を問うものなどが現在起こされています。担当の弁護士によるとこれらを問うことによって隠されている死刑の実態を少しでも開示させたいという目的も含まれているようです。ここまで書いたことをじゃあ具体的にどうするのかといえばそれは簡単なことではないでしょうが、しかし少しも不可能なことではなく死刑廃止は十分に実現可能です。生命に関する問題に解決は困難だから関わるのはよしましょうなんて言説にのっかることの方がむしろ困難です。死刑廃止の実現可能性を高めるためには、まず日本の死刑や死刑制度についてできるだけみんなで情報を共有するということが不可欠です。隠すことに尽力する権力にあらゆる角度と方法から風穴を開けていくしかない。そうした抵抗を微力かもしれないがわたしはやり続けていくつもりです。最後に情報共有として、先に挙げた内閣府世論調査は五年毎に行われることになっていますからまさに今年2024年に実施されるはずなのですが、それについての参考となるポッドキャスト番組のリンクを以下に貼っておきますので良かったら聴いてみてください。

丸ちゃん教授のツミナハナシ-市民のための犯罪学-:Apple Podcast内の#009 死刑制度に対する人々の印象と実態〜世論調査から考える〜

*1:何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

*2:3ページ目-基本的法制度に関する世論調査(平成26年11月調査) | 世論調査 | 内閣府

*3:内閣府世論調査の問題点については以下のホームページ及び意見書の内容を参照。

日本弁護士連合会:死刑制度に関する政府世論調査に対する意見書