ダイアナという名の少女

 アン・シャーリーのとなりにはいつだってダイアナ・バリーがいます。『赤毛のアン』の主人公アン・シャーリーの"腹心の友"ダイアナ・バリーのことは、物語を知らない方でもなんか仲良しの友達がいるんだったかねというくらいには知られているんではないでしょうか。しかしじゃあダイアナについて色々思いをめぐらせてみると、意外とその人物像というものがはっきりしていないことに自分で気がつきました。そこでダイアナ・バリーってどんな人?ということを考えてみます。

松本侑子 訳『赤毛のアン』(文春文庫)を基本にしています。

 

 最初にダイアナの名前が物語に登場するのは、グリーン・ゲイブルズに向かう道中の馬車で交わされるアンとマシューの会話の中です。アンが「なんて完璧に愛らしい名前なんでしょう」(39)と言ったのに対しマシューは「そうさな、どんなものかね。わしには、罰あたりな異教徒のようにきこえるがね」(39)*1と、あまり普段直接的に意見を表明しないはずのマシューがここではおもいきって辛辣な表現を選んで話します。初対面のアンに誰かを紹介するに際して使う言葉としてはいささか乱暴すぎるように思うんですが、それはマシューの信仰心などとは別にアヴォンリーのそこかしこでこのような会話が普段からなされていたからではないかと思うんですね。それでごく自然にこのような言葉が出てきたんではないかなと。リンド夫人が面と向かってダイアナにそのようなことを言っている光景も容易に想像できます。とにかくこの時点ではアンも読者もダイアナを想像することくらいしかできません。

 ダイアナ本人の登場はそれから少し経ってふたりの出会いの場面。マリラに連れられてバリー家を訪れたアンは早速ダイアナとふたりで庭に遊びに出ます。そこで腹心の友としての誓いを立てようと提案するアンに「まあ神様を罵るなんて、いけないわ」(140)と返すダイアナ。これは“swear”という語の“誓い”と“罵り”という二つの意味を取り違えて理解したことによる齟齬が笑いを誘う場面なんですが、しかしこの「神様を罵るなんてー」というダイアナの反応は、彼女がこれまでずっと受けてきた名前に対する不当な評価や扱いが影響しているのではないでしょうか。「アンって変わってるわね。変わってるとは聞いてたけど、でも、アンをほんとに好きになりそうよ」(140)。“変わってる”とはダイアナ自身に向けられた評価でもあります。そんなアンのことを「ほんとに好きになりそう」だというダイアナの告白は、親近感を持ってアンを意識しだしたと同時に、彼女にとっての自己肯定の言葉たり得たのではないでしょうか。“なりそう”というところに迷いや未知の部分への不安が垣間みえますが、それでも“好き”という方へ確かに一歩踏み出した彼女の姿がそこにあります。

 アンがダイアナをグリーン・ゲイブルズに招いて開いたお茶会で、アンはラズベリー水と勘違いして果実酒をダイアナに勧めて酔わせてしまいます。この事件によってダイアナの母親バリ-夫人は激怒し、アンとダイアナふたりの関係は引き裂かれることになります。“永遠の別れ”を言いにアンを訪れたダイアナは言います「ほかに腹心の友は、決してもたないわ…ほしくもないわ。アンを愛するようには、誰のことも愛せないわ」「アン、心から愛しているわ」(211)。出会ったときには「好きになりそう」だったのが、この時点では「愛している」へと変化しています。ふたりの仲は、ダイアナの妹ミニー・メイの病気の看護でアンが活躍したことをきっかけとしてバリー夫人の誤解を解くことに成功し元に戻ることになるのですが、特にこの引き離されていた間に何度もダイアナはアンに“愛”という言葉を贈っています。時には詩の形式でそれを表現するなどアンに負けず劣らずのロマンチストとしての側面もみせます。「好きになりそう」のときに踏み出したその歩みを止めることなく、少しのためらいも感じさせないほどただ真っすぐに力強くダイアナは愛を表現するのです。

 ところが、ダイアナのアンへの直接的な愛情表現というものは次第に減少していくことになります。この一連のダイアナの行為を同性愛的表現と読むか、リリアン・フェダマンの名付けたところの“ロマンチックな友情”というものとして解釈するかそれは様々でしょう。しかし“バーリー夫人の異性愛制度の教化によって、ダイアナはアンに寄せる自身の同性愛的愛情を語る言葉を持ち得ず、「親友」という立場で彼女の近くにとどまり続けることしかできなかったのである”と髙橋博子が論じている*2ように、このダイアナの変化というものは異性愛制度を含むジェンダー規範が大いに作用してのものだろうと思われるのです。というのも、アンがクィーン学院の受験クラスに入ったときも、両親の考え方からダイアナはそのクラスに入ることを許されなかったし、リンド夫人などは「男と肩を並べて大学へ行って、ラテン語だ、ギリシア語だと、くだらない知識をつめこむような娘は、どうかと思いますよ」(481)とはっきり語るほど、かなりこの舞台のアヴォンリーは保守的なジェンダー規範に支配された社会であることがわかるからです。ダイアナはそれに対する抵抗の手段どころか、少しの逸脱する言葉でさえ持つことを成長とともに禁じられていったとみることができます。

 その反面というのか、その後のダイアナが大いに語ることをある意味では“許された”といえるのが、ホワイト・サンズ・ホテルで開かれる演芸会に出演するアンの支度を手伝う場面。衣装や髪型などあらゆるプロデュースを一手に引き受け、不安を吐露するアンの容姿を褒め称えつつ「完璧よ」(421)と言うのは自身の仕事に対してかと思わせるほどの活躍ぶりです。斎藤美奈子は『赤毛のアン』を貫くフェミニンやガーリーとされるものへの礼賛や肯定的態度を“膨らんだ袖を肯定する思想”と評の中で指摘していますが*3、フェミニンだったりガーリーだったりといったものの肯定というのは、アンのように(全て意識的にそうしていると読めるわけではないにしても)規範的でなくむしろそこから外れたあり方を度々示してきた人物ならいざ知らず、ダイアナのようにその規範に徐々に抑圧されてきた立場からすれば純粋に“肯定”と受け取ることは少し難しくなります。ある言葉は奪われ、ある言葉は許される。ダイアナの主体性やそうして獲得したものは積極的に“肯定”したいと考えますが、そこにある抑圧というものをみないで済ませることはとてもできません。むしろ、ダイアナのそのような態度によって背景にある規範が色濃く浮かび上がってくるような気がするのです。

 ダイアナのセリフを注意深く読んでいると「ねえ、聞いて」という言葉が何回か出てくることに気づきます。口癖というほどでは全然ないんですがしかし少し引っかかる程度にはです。ダイアナはとにかく聞いて欲しかったんじゃないかなと思うんですね自分のことを。アンは例えマリラにあしらわれたとしても100%聞いてくれるマシューが常にいるけれど、それに比べてダイアナはアンを除けばそこまで聞いてくれる人がいなかったのかもしれない。そのアンにさえ話せないこともあったろうことを思えば、学校を卒業するときに「これからは、一人ですわるわ。アンと並んで勉強したことを思うと、もう誰とだって並べないもの。ああ、愉しかったわね、アン。それがみんな終わったなんて、たまらないわ」(404)と呟くダイアナの言葉から滲み出る孤独に胸が締め付けられそうになります。もっとやりたいことや言いたいことがきっとダイアナにはたくさんあったはずなんです。先に引用した"自身の同性愛的愛情を語る言葉を持ち得ず"という点を考慮して読めば、そもそもセクシュアリティについて話をする機会を奪われていた、その行動を抑圧されていた可能性もまたあるのではないかと。ダイアナの「聞いて」からそんな背景を含んだ想いをわたしは感じます。

 こうしてダイアナに着目して『赤毛のアン』を読み返してみると、Netflixのドラマ『アンという名の少女』のアダプテーションはとても良かったなあと思います。植民地主義レイシズムの問題、フェミニズムクィア理論の観点を盛り込むなど原作にはみられない批評的立場での語りなおし、そしてダイアナを解放する物語というこの作品のひとつの側面など、とても胸を熱くさせる要素に溢れています。ダイアナを解放したいというこの気持ちは、なにもダイアナは原作においては悲しいだけの人物だと言いたいのでは全くないです。むしろかわいくておもしろくて結構大胆でイタズラっぽくて深い思いやりがあって強い意志を持つダイアナ・バリーその人が大好きなんです。大好きだからこそダイアナのことをもっと考えたくなる。そうするとそこにある規範や抑圧から目を背けることはますますできなくなるんですね。

 さて最後にアンがクィーン学院を卒業した後に、グリーン・ゲイブルズの切妻の部屋でダイアナとふたりで語り合う場面から少し。「あら、ステラ・メイナードのほうがよかったんじゃなかったの?」「ジョージー・パイが言ってたわ。あんたはステラにのぼせ上がってるって」(455)。ダイアナの鼓動が聞こえてきそうなほどにとてもドキドキするこの言葉にアンは「私、前にもましてあんたを愛しているわ」(456)と応じます。物語の終盤に交わされるこの短いやりとりからわかることは少ないかもしれないけれど、何もかも知っていたら半分もわくわくしない。だって想像の余地がないでしょう?

 

 

*1:ダイアナという名前はローマ神話の月の女神ダイアナに由来するため、長老派プロテスタントの立場から“異教徒のよう”とマシューは表現している。/訳者によるノートー『赤毛のアン』の謎ときー第2章(22)参照

*2:平林美都子 編著『女同士の絆 レズビアン文学の行方』(彩流社)P.57

*3:斎藤美奈子『挑発する少女小説』(河出新書)P.121