『秘密の森の、その向こう』-Petite Maman

 セリーヌ・シアマ監督『秘密の森の、その向こう』(原題:Petite Maman

 結構前に実は一度観ているんですが、もう一度観てやはりすごく好きな映画だと改めて思ったのでそういうことを書こうと思います。

 

 8歳のネリーは母親と父親と共に亡くなった祖母の家の整理のために森の中の一軒家を訪れる。一夜明けたところでネリーの母マリオンは理由を告げず突然姿を消してしまう。そんな中ネリーが森の中で遊んでいると、同じ8歳で容姿のとても似た母と同じマリオンという名の少女と出会うー

 

 セリーヌ・シアマ監督というと『燃ゆる女の肖像』が有名ですね。わたしもそれにとても衝撃を受けた数多くのひとりでして、それから過去作も観られるものは観ていたんですが、今作についてはおそらくわたしの人生においても相当に大きな位置を占めることになるだろうなと思いました。

 ネリーが幼い頃の母マリオンと出会うというとすごくSFとかファンタジー感が強調されますが、何か物理的とか科学的な説明がなされるようなそんなものではなく自然になんの気無しにふっとその瞬間が訪れるわけですね。これは藤子・F・不二雄の短編なら『ノスタル爺』とか『山寺グラフィティ』みたいな、特に理由は説明されないが唐突に超常的な現象が起こる“少し不思議”な物語という格好です。わたしはこの類が好物でして、特に理屈とかそんなものはどうでもよくなんでかそうなったけど凄いことが起きたし楽しかったしドキドキしたねで十分なんです。そういうふうに割り切ってくれる作品である時点でもうなんならベストなんですね。

 そしてこれは驚きと喜びが混ざり合っているのですが、極個人的なことでわたしは自分の母親の子どもの頃のことを勝手に想像するということを昔からよくしていました。特に写真などを多く見たということもないし、少し子ども時代の話を母から聞いた程度の知識でしかないけれど、それでもフルで想像力を使ってこんなことしていたかもとかこんな話し方かもとか頭の中でよくやっていました。そしてこれは他人には話そうとも思わないしそんな機会もなくずっとわたしの中だけのこととしてしまっていたのですが、この映画でやっていることってもしかしてあれなのか?というわたしの経験を肯定してくれている感覚がありました。わたしだけではなく結構多くの人が似たようなことをしていて、それがネリーとマリオンの出会いという物語の源泉のひとつでもあるのかもしれないと、とても驚いたしすごく嬉しかったんですね。

 ネリーはかなり察しのいい人物で、これは何やら怪しいぞと多分マリオンと出会ったときから気付いていて、過去の家に招かれたときに色々と確認して回る。この映画は72分ととてもコンパクトな作品で(個人的にこのくらいの100分以内ほどの映画が好きなんですが)それでも説明的にはただ壁紙を写すとかだけでも十分足りるところをちゃんと演技を含めて丁寧に見せるということがとても大事なんだなと思います。こういうところで監督が何を重要視しているのかがすごく伝わってきます。物語を観ているというよりも人を観ているという感覚。こういう話だからこういう画で進んでいきますというのではなく、こういう人たちがそこにいるということを観ているわたしという関係性が生まれることにわたしはとても心地よさを覚えます。

 お父さんの話が聞きたいとネリーが尋ねてもなかなか話さないというくだり。父親は少し考えて「お父さんが怖かった」と言うだけなんですが、ここも興味深い場面でした。というのも、話さない理由は話したくないのか苦手なのかもしかするとジェンダーの問題もあるのかと色々考えられますけれど、大人は自分の語りなど大したことではないと勝手に思い込んでいるところが結構あると思います。子どもが聞きたいのは別に大きな舞台装置で大活躍する冒険譚に限ったことではなく、なんてことはないただ美味しかった話とかおもしろかった話とか困った話とか例え小さな話でもそのうちに入るんです。ネリーとマリオンふたりのシーンをみると、ボードゲームをしたり料理をしたりといった日常的な風景にしっかりフォーカスしていることがわなります。そういうもしかすると語られないかもしれない細かなところも人生の重要な要素だなと感じます。「お父さんが怖かった」と言ったあとすこし長めに時間を取って沈黙のままカットになるんですが、これはコミカルに映ると同時に小さな語られなかった話についても思いをめぐらせるための余白となる効果をもたらしています。そして怖かったお父さんからそれを引き継いではなさそうだという安心と、むしろネリーの意思を尊重する父親としての姿が強調されてみえます。

 ネリーは察しがいいと書きましたがそれは子どものマリオンも一緒で、ふたりが色々な物事を考えたり感じ取ったりしている様子というものは例えば先に書いた沈黙のような演技からも読み取れるものなのですが、子どもの思考や感受性を全く軽んじることなくむしろ深くそこに迫るその描き方には敬意さえ感じます。『思い出のマーニー』のアンナとマーニー、『ふたりのロッテ』のルイーゼとロッテを関係性だけではなく敬意を持った描き方という点からも彷彿とさせるものがあります。またそこから読み取れるクィアネスやシスターフッドという部分も作品として共通していることでしょうか。あと『ミツバチのささやき』のアナとも、黙っていてもすごく考えたり感じたりしている姿などよく似ているなあと思います。大人が考えている以上に子どもはあらゆるもの考えたりみたり感じたりしています。至極当たり前のことではあるんですがやはり忘れがちですよね。それにことさら無垢な存在として描く必要もまた特になくて、なにより必要なものは敬意であると改めて思い出させてくれます。

 ふたりのシーンについて考えていたら、あんまり印象的なものばかりなので列挙に次ぐ列挙になってしまい収拾がつかないことになります。それでもやはり後半のふたりでクレープを作るところはすごい。ただふたりでわいわいやってるだけなんですけれどこんなに幸福な感情を呼び起こしてくれる映像は他にないでしょう。映画史に残りますねこれ。いや残そう。あと前半にパドルボールでネリーが遊ぶ場面ですが、あのものすごいぶん殴るみたいなラケットの振り方が最高に好きです。それでボールが飛んでいった先にマリオンとの出会いがあるので結構重要なところなんですが。そして全体としてセリフはそれほど多くなくても、ふたりの交差する目線や笑い声、並んで歩く後ろ姿など本当に素晴らしいですよね。わたしは極度に説明的なものを嫌う傾向にある人物なんですが、こういったいくらでも考えやイメージが深められたり広げられたりできる作品はやはりいいですね。

 この映画はおわかれに始まって最後にもう一度おわかれ、そして出会い直しをするところで終わります。「さようなら」から始まるネリーの物語は「マリオン」というセリフで締めくくられます。それに呼応するマリオンの「ネリー」というセリフによって全く新たなふたりの関係性がこの出会いから始まります。“親子”なんていう説明など必要ない深く相手を思うふたりの人間がそこに描かれます。いままでのふたりではもうないという意味ではこれもおわかれの一種かもしれません。この最後の数カットが本当に素晴らしく、がらんとした部屋にぽつんとネリーが座っていて画面も結構暗いんですけど、だからこそ人物が浮き上がるし穏やかだけど緊張感がある独特の空気があります。それになんかちょっと最初は気まずいんですね。それは数日ぶりだからなのかもしれないし、このときにネリーが子ども時代の自分と出会うことをわかっているからなのかもしれません。このふたりの場面まででほんの3日ほどの時間の話なんですが、それ以上に長い年月、マリオンの8歳から現在までもそうですしネリーとのこれからまで含めて長い長い時間の想像が可能です。これだけコンパクトなサイズの映画で、物語内の時間も短いにもかかわらずいくらでも広がる世界を感じることができるのは、丁寧な作品とはよく言われるけれどまさにこれこそがそうであるからだと言えます。この素晴らしい作品をわたしはずっと大切にしていきたいと思いますし、みなさんにもぜひ観てもらいたいなと思っています。さようなら。