コジコジはコジコジ

 TVアニメの『コジコジ』(原作さくらももこ)を観ています。結構久しぶりというのもあって懐かしさと共に作品との出会いなおしをしているような気分です。

 “コジコジは生まれた時からずーっと将来もコジコジコジコジだよ”このかなり有名なセリフは第一話の『コジコジコジコジ』に登場するものです。学校の先生がまるっきり勉強しないコジコジに説教する場面で“…コジコジキミ…将来 一体何になりたいんだ それだけでも先生に教えてくれ”と言ったことへの返答です。

 コジコジの暮らすメルヘンの国というのは実に多様なキャラクターの住む世界で、コジコジや半魚鳥の次郎くんなど見た目からかなり個性的なキャラクターもいれば、正月くんやおかめちゃんのようにほとんど人間と見分けるのは難しいけどどうやら人間とは違うらしいキャラクター、またジョニーくんのような人間界出身のキャラクターもいます。そこでの暮らしもまた多様かつ自由な雰囲気のある空間でなされているようなのですが、しかしその中にある学校という場やその設定はこの世界にとってかなり重要な意味と機能を持っています。

 先生は教壇でコジコジら生徒に向かってこう言います“メルヘンの住人は人間を楽しませる使命がある それがメルヘンの住人の役割なのだ”自由に暮らしているように見えてメルヘンの住人には“使命”と“役割”があるというわけですね。かなり自由度の高そうな世界だと思いきや急に不穏な空気が漂ってきます。ふしぎなキャラクターの暮らすふしぎな世界を抑圧的に管理・監督する権力機関といえばちょっと恐ろしい表現ですが、しかしメルヘンの国の学校というのは、日本のある地方の学校に通ったり通わなかったりしてきたわたしにはかなり馴染み深いあまりに学校然とした姿です。おもしろいのは、この先生というキャラクターはロボットっぽい見た目なんですが、その他の職員室にいる教職員とみられるキャラクターの見た目はしかしどう見ても人間的なんです。“人間を楽しませる”という“使命”と“役割”というセリフを思えばとても怖いですよね。それを達成するためにメルヘンの住人を規範的に教育し管理し抑圧している人間の姿とみれば植民地主義批判としての読みも可能でしょう。それはメルヘンの国に置かれた“人間界”のメタファーと言えるのかもしれません。

 しかしそんな管理と抑圧をもたらす権力機関である学校とその象徴としての先生が“遊んで食べて寝てるだけだよなんで悪いの?”とコジコジに返されると上手く対応できずタジタジになり激怒します。そして“コジコジコジコジ”という言葉が飛び出してくるわけですが、それはコジコジがメルヘンの住人に課せられた“使命”や“役割”から解放された自由な存在、権力が作り出す秩序や規範からは逸脱した存在であることを示しています。そしてその逸脱性は権力を打ち負かしその関係を転覆させることができる力を持つのです。これに対し“真理だ…負けたぞ 先生の負けだ”とかなり先生はショックを受け、このやり取りを窓の外から覗いていた次郎くんとコロ助も感動して心打たれている様子が描かれます。抑圧的な構造を知らぬうちに受け入れ内面化させている自分自身に気づいた衝撃と、その構造を破壊し解放させる力を持つ逸脱性へのあこがれが、“コジコジコジコジ”を感動的な言葉として響かせます。

 “コジコジコジコジ”に大変感動した次郎くんは自分もそれを取り入れようと試みます。その夜28点の答案に激怒したお母さんは“あんた将来立派な半漁鳥になれなくてもいいのかいっ”と次郎くんに詰め寄ります。それに対して次郎くんは“…フフフかあさんオレ 次郎だよ 次郎は今も将来もずっと次郎なのさ”と答えるやいなや“ずっと次郎じゃ困るんだよ”とぶん殴られるという散々な目に遭います。このくだりがこの一話のオチになるのですけれど、この上手くいくはずだった言葉や態度をタイミングやその使い方を間違えることで結局失敗するというパターンから、これはどうもドラえもんガチ勢としては『ジ~ンと感動する話』*1を思い出さずにはいられませんでした。テストの点数に落ち込むのび太(ここでもテストか!)に先生が“目が前向きについているのはなぜだと思う?前へ前へと進むためだ!ふりかえらないで。つねにあすをめざしてがんばりなさい。”と声をかけはげまします。その言葉に感動したのび太はその話を他人に披露しようとするのですが、タイミングが悪かったりして相手にされず、ドラえもんに聞かせるときにも“目が前についているのは前に進むためなんだよ”という言い方をしてただ困惑させるだけになってしまいます。このくだりは何を話してもみんなを感動させることができる“ジーンマイク”という道具が登場するまでの導入部なんですけど、この微妙な言葉の使い方や間の悪さによる失敗をおかしく表現するという語り口は共通点として指摘できます。

 ここでいかにも強引にさくらももこ藤子・F・不二雄の共通点としての落語を元に考えてみることにします。ふたりともかなりの落語好きとして知られていますね。作品にも落語の要素を取り入れているものが両者ともに結構な数あります。だからむりくり落語の話に持ち込みます。さて落語でこの言葉使いと間の悪さというと例えば『時うどん』という有名な演目があります。これはうどん屋で詐欺的なトリックを使って代金を上手くごまかした者を横でみていたその連れが、自分もそれを真似ようとするけれど根本的にその方法などを勘違いしていたりするあまり結局失敗するという滑稽話です。この話は上下の権力関係によって生み出される落差を笑いにしているのですが、例えば“旦那と番頭”のような二人の間の権力関係が物語の構造の土台になっているというのは落語で度々採用される型のひとつです。支配者×被支配者という構図やエリート×非エリートの場合もあります。*2またこれを逆転させた演目*3もあるのですが、権力・権威を持つ者とそうでない者との間の摩擦が、桂枝雀の言葉を借りれば物語に緊張と緩和を生み出しているというわけですね。『時うどん』の場合は権力関係的に上の立場の者の立ち回りが全体に緊張をもたらし、それを下の立場の者が模倣する様や失敗する過程が緩和をもたらすことで落とすわけです。

 この権力関係による緊張と緩和を『ジ〜ンと感動する話』に当てはめてみると、まず先生が話すという行為やその内容が権威付けされ緊張をもたらし、のび太の失敗の連続が緩和をもたらしています。その後に登場するジーンマイクの力でのび太の話すことにみんな感動するという事態が巻き起こるのですが、このマイクがここでは権威を象徴するアイテムとなります。つまりどんな“くだらないこと”でもこのマイクを通すことでみんなが感動する言葉となる。そのように人々の感情や行動をコントロールする権威なのです。裏返せばそのような構造を浮き彫りにすることで、権威そのもへの批判と茶化しを表現しているといえるでしょう。このように権威に対して権威化されていないものをぶつけた際に起こるショックが、つまり両者の権力関係によって生じる反応が物語の核心的部分となっています。

 では本題の『コジコジ』についてはどうかというと、コジコジは権威や権力とは真逆の、はてはそれらの作り出す秩序からの逸脱性を持ったキャラクターだと先に述べました。最初に先生という権威からの抑圧という緊張があり、それに対する“コジコジコジコジ”という対応が緩和にあたると読めます。しかしこのセリフにより喚起される次郎くんとコロ助の感動からわかるように、ここで起こることは緩和による笑いではなく感動という抑圧とはまた別種の緊張だとわたしは考えます。物語のハイライトであるとともに、一話全体としての緊張も最大に達している場面なのです。その直後に先に述べた次郎くんの失敗があるのですけど、ひとつの場面上の緊張はお母さんの詰め寄りによって起こっていますが、物語全体としての緊張がのその直前に置かれていることによって全体としての緩和=オチという構図になっています。

 コジコジと先生のやり取りのひとつひとつをみると全て緊張と緩和の形で成り立つ、権威を茶化すかたちで笑いに還元するものであることは確かなのですが、しかし“コジコジコジコジ”という言葉が提示されたときにその茶化しというものはあくまで受け手の解釈の問題であって、まさにその言葉通り最初から“コジコジコジコジ”だったんである!というそのストレートかつシンプルな“真理”を見出したときに起こる心の動きが感動となり緊張となる。これも受け手の解釈次第であるといえばその通りではあるんですが、この感動と緊張との関係はそのようなところから湧き上がるものだとわたしは解釈しています。当たり前の言葉に解放される感情とは、先に述べた通り“逸脱性へのあこがれ”と抑圧的な社会構造の内面化に起因すると思います。その当たり前を気付かせてくれるコジコジという存在とその“コジコジコジコジ”という言葉が、物語に緊張と緩和、言い換えれば抑圧と解放を描き出しているのです。

 

 なんらかの規範から逸脱していること。それを肯定するコジコジという存在に惹かれます。コジコジには逸脱しているつもりすらないのかもしれないけれど。しかしその存在がすでに抑圧への抵抗となっているなんて最高にかっこいい。規範から逸脱していることに勝るものなんてない。そんな力を与えてくれる一方で、ほんとに謎だらけのふしぎな存在というのも惹かれる理由です。なんだかよくわかんないものが結局ほとんどよくわかんないままなんですね。それが実に心地いい。他のキャラクターにしたってそれは共通していて、謎は謎で別にいいし理由なんてあってないようなものでそれを特に説明したりされたりする必要もそんな謂れもない。それこそよくわからない謎だろうがふしぎだろうが“コジコジコジコジ”ということですね。現に存在する誰かのことやわたしのこと、確かにそこに見えるふしぎなこと、おもしろいこと、くだらないこと、みんなまぼろしじゃないぜ!

*1:てんとう虫コミックス第9巻

*2:例えば『代書』。代書屋/エリートと依頼者である労働者/非エリートとの間の権力関係によってすれ違うコミュニケーションが物語の中心的部分ではあるが、しかしこの演目の場合は非エリートのペースにエリートが徐々に巻き込まれていき翻弄される様も笑いとして表現している。

*3:例えば『寝床』。余談だがドラえもんジャイアンの歌にみんなが気絶するというギャグはこの演目を元にしているのではないかと思われる。