監督・脚本/エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン『ミツバチと私』を観ました。以下本編の一部内容に言及している箇所があります。
カメラを向けられるのが苦手です。自分の写る写真を見ることも。自分の姿が好きではないということもあるんですけど、こちらを鋭く射抜くように向けられたレンズを見るときどんな表情をしていればいいのかわからなくて、どの姿勢が好ましいものとされるのか皆目わからずただモゾモゾするばかり。しかし自分がファインダーを覗く番となるとそんなことはすっかり忘れてしまい、撮ることに夢中で撮られる苦痛を考えなくなるんですね。それどころか、こっちを向いてとか笑ってとかもっと光量をとか風よ止まれとか、ファインダーの中の被写体を自分の思う通りにコントロールしようと試みたりします。
映画の後半あたりにカメラをこちらに向ける女性の姿を描いた大きな絵が出てきます。この社会でカメラがマイノリティに向けられるとき、証明しろ定義してみせろと迫ります。確実に現にあるその存在を否定し、自分のコントロール下で思うままに仕立て上げるまで拒否し続けます。そんな無数のレンズが常に向けられるという苦痛をも認めることはしません。絵の中でレンズをこちらに向けファインダーを覗く人物の顔はわかりません。しかしそこに当てはまる人物のひとりはわたしだと思いました。
終盤のルシアが姿を消す場面。その直前に行われる集合写真の撮影。そうか、今までずっとずっとそうしてレンズはルシアに向けられていたんだ。それはおかしい正しくいろ何が不満だなぜだどうしてだ。何度も何度も繰り返されるこうしたルシアへの攻撃は、映画の始まるずっとずっと前から彼女を責め続けてきた。彼女がいなくなるまで、陽が沈んで辺りが暗くなるまで誰もそのことに気づかなかった。気づかないふりだったのかもしれない。いや少なくとも叔母のルルデスは気づいたひとりではある。しかしその存在にわたしはある種の役割を委ね押し付ける一方で勝手に安心したまま自分の持つカメラを手放すことはしなかった。いやその社会構造の中にある地位を手放さなかったといった方が正しいのかもしれない。
映画前半にあるトイレの場面、姿を消したルシアを探すときに連呼される彼女のデッドネーム、本当に苦痛でした。辛かった。ある人の存在そのものが否定される瞬間を何度もみるこの辛さというものは、映画を観終わって何時間経とうとも消えることはありません。それは毎日のように特にSNSで繰り返されるそうした攻撃を目の当たりにしているからというのもあるでしょう。人の存在を否定するな。排除するな。これを言い続けて抵抗することはわたし個人の闘いでもあるのですが、しかしこんな(クッソくだらん滅びろとほんとは思ってる)社会を変えることは全く可能なことですし、みんなでやろうよってめっちゃ綺麗事本気で大好きなわたしは思っています。今すぐ変えなければならない。変えましょう。みんなで。