自己責任じゃないー死刑廃止を考える2ー

前回の記事で引用した内閣府世論調査*1、佐藤舞とポール・ベーコンによる調査*2の両方において、死刑廃止の理由についての質問に「生かしておいて罪の償いをさせた方が良い」という回答を選択したひとの割合が半数近くに上ることが示されていた。それにしても“生かしておいて罪の償いをさせた方が良い”とはなんだか偉そうだ。とにかくいやな感じがする。そこのところをひとまず共有できればと思う。そうでないと話が先に進まないのだが、それはそれとして死刑存置死刑廃止の立場を問わず、この“罪の償い”という言葉は常に両者に共通する主要なテーマだ。

償いをさせる

 ある加害に対しての償いというと、それ自体はもっともなことであり、ともすれば“自然”な行為とみなされることかもしれないし、わたしも個人のそうした感情や表現を全く否定しているのではない。しかし“生かしておいて罪の償いをさせた方が良い”という表現のポイントは、自分や誰かがそれを“する”というのではなく、誰かにそれを“させる”と言っているところだろう。加害者から被害者 *3に対しての、あるいは被害者にとってのものであるはずの償いを、父権的な態度で支配するような試みなのである。もちろん選択肢に用意された文言――役人が編み出した言い回しだろう――なので、当然それを選んだひとたち全ての考えを表しているものだとは言えない。それでも“生かしておいて”という言葉のもつ尊厳を軽んじているような印象や、“償いをさせる”のような圧力的な表現には、近年特に顕著な厳罰主義の傾向と繋がりがあるようにわたしは感じる。

 誰かに“罪の償いをさせる”ことがはたしてできるのだろうか。まず何より被害者にとってそれは償いと受け取ることができるものなのかどうか。被害者やその被害が、話されていることの中心にあると言えるだろうか。被害者と加害者を当事者だとして、そのどちらでもない立場に自分をおいたときに、わたしは加害者に“償いをさせる”権力を持っていると言えるのだろうか。ましてや被害者にそれを償いと受け取るよう働きかけることができるのか。無論そんなことはできるはずがない。しかし“償いをさせる”という言葉には実際そうした当事者を抑圧する力がある。その意図はどうであれだ。

厳罰主義

 厳罰化について、多くの場面でそれは加害を減らすことについては効果がないと言われている。例えば長期にわたる収容は、被収容者にとって外のコミュニティとの接点をどんどん減少させてしまうことになるし、自由が奪われていることや収容されている施設の中で経験する困難もいたずらに長引かせることになる。そうすると刑期を終えて戻る場所や人間関係、生活に関することや健康など多くの面についての危機的要素は増大するばかりだ。それにおそらく最も議論されるだろうと思われる再犯についても増えることもわかっている。他にも例えば、スケアード・ストレートと呼ばれるプログラムについて、これは恐怖やネガティブな感情を植え付けたり喚起させて犯罪行動を抑え込もうとする一種の厳罰主義だが、これもやらないよりやった方がむしろ悪化するということがわかっている。つまり苦痛を与えたりその程度を増やしたり期間を延ばしたり、脅すようにして“心変わり”のような仕方で内面を操作しようと訴えたりしても、それは加害行動について向き合っていることには全然ならないということだ。むしろ厳罰は尊厳を破壊する行為なのであって、逆に苦しみが余計に増え続ける社会を作ってしまっていることになる。

 これは“生かしておいて償いをさせる”でも同じことが言えるだろう。そのような支配的な態度は、それが暴力的であるばかりか加害者と被害者どちらにとっても何ももたらさない。それどころかむしろことを悪化させる危険性の方がよほど高い。例え反省や謝罪を促したとしても――そうすべきだと思う気持ちは理解できることだが――加害を減らすということにおいてそれは無意味だ。それには犯罪や加害の背景はもちろん、加害を出した本人の考えていることや直面している困難について、またその要因となる社会的、政治的背景や構造にも注目しなければならないし、その問題をひとつひとつ解決することこそが必要となる。当事者ではないひとが関わることができるとすればそれだけであって、償いや反省という当事者間のコミュニケーションや内面のことには踏み込めない。また被害者にとってみても、それぞれの状態や環境や立場によって回復に必要なニーズは異なってくる。本来そこに多くのコストが求められるはずのところが見落とされている。償いや厳罰を求めることに費やされた分、被害者にとって必要となる支援などへのコストは確実に削られている。そしてそれは依然として放置されたままだ。

 死刑制度について考えてみると――とても恐ろしいことだが、死がすなわち償いだとされる場合がある。これは死刑存置の立場をとるひとに多い、もう一方の償いについての意見だ。これは被害者の感情を慮るもののようによく持ち出される言い回しではあるが、実は逆に被害者をないがしろにした傲慢な考え方だ。繰り返しになるが、償いかどうかは被害者が中心となって語られるべきこと、あるいは被害者と加害者の間の問題なのであって、当事者ではないひとが決めることではない。死刑肯定の裏付けとして被害者を無理矢理担ぎ出しているだけだ。さらに死刑の恐ろしいところは、反省や謝罪など全く関係ない制度だということだ。こればかりは他の刑罰とは根本的に異なる死刑の本質的部分だ。反省や謝罪を促す気持ちは理解できるとしても、そもそも死刑はそれすら排除する思想であり制度なのだ。目的は死(国家による計画的殺人)のみであって、そこに“更生・社会復帰”はおろか少なくとも反省、謝罪という側面での償いすら求められてはいない。ただ有無を言わせない“終結”が国家によって宣言されるだけだ。

懲らしめと自己責任

 何らかの犯罪が発生したとき、警察や行政の好んで使う“安全・安心”というキャッチコピーや、治安という言葉がそこに踊れば、厳罰の方に要求が傾きがちになることも理解できない話ではない。そのうえは事件がセンセーショナルな仕方で取り上げられ、犯罪の増加や凶悪化という見出しが並べられ、各所で“専門家”がそれらを宣伝することとなれば、その流れに拍車がかけられることもまた請け合いである。しかし厳罰に傾いた結果といえば、それはなんらの解決ももたらさないどころか、様々な困難や尊厳の回復など多くの問題が取り残され悪化していく未来しかない。

 厳罰の背景には誰かを懲らしめたいという気持ちがある。悪いことをしたのだから懲らしめられて当然だと、この考え方も自然化されているものかもしれない。市民は国家にそれを要求し、国家はそれを利用する。むしろ権力関係を考慮すれば、国家の方から圧倒的な力でそこに誘導しているとも言える。 国家がその権威を示す恰好の機会となることだろう厳罰を、市民から要求されたとあれば国家にとってそれは大歓迎であろうと思う。より厳罰に向かうことで加害行為にではなく加害者個人の責任にだけ問題を集中させ、その名のもとに被害の話をも終わらせてしまう。加害者は加害を出したのだからどうなってもいいお前の責任だ、そして厳罰に処したしたのだから被害者はこれ以上文句は言うな後は自力で乗り切れ、という話に容易に転がっていくだろう。自己責任論である。

 厳罰主義とともに近年増大している自己責任論。批判も多いがそれでもなすすべがないかのように拡がり、あらゆるマインドのすみずみにまで浸透している。別にどちらも近年になって突然現れたものではないが、しかし顕著なその拡大のスピードと攻撃性には恐怖をおぼえる。それは必ず排除とともに包摂を伴って増大する。国家による暴力や抑圧の問題を、排除と包摂を組み合わせることで個人の話に転化させる。国家による統治のための方法論のひとつだ。

 被害者の多くは厳罰によってまたは死刑によって癒されることはない。しかしこの社会ではあるべき被害者像というものが作り出され、厳罰を望むはずだという考えが被害者を盾にして常に掲げられている。そしてあるべき被害者像を拒否した被害者は弾き出され、最悪なことに攻撃の対象にすらされてきた。現実にそうして自分の想いを封じ込められた被害者は多い。社会が作り上げた被害者像という枠組みに被害者を閉じ込めて、その口を封じ、その語りを断ち切る。自分たちのための納得できる懲らしめを実現できれば、それを傲慢にも償いとして済ますこともためらわない。その一方で国家は厳罰や死刑という暴力を行使してそれを“終結”させる。後は個人の問題だと。後は自己責任だと。

 加害者に対してはもはや当たり前のことのように自己責任論が当てはめられる。その話など聞く必要はないし社会的背景などそんなものは“甘え”である。死刑は生命はもちろん加害者による語りも不可逆的に葬られる。そうすることで社会として考えるべきだったこと、変えなければならないはずの多くのことも同時に葬り去られる。まるでそれを欲しているかのように、考えなくても良いようにするためにだ。加害者の自己責任の話にさえしておけば一時の安心が得られるかもしれないけれど、その間も国家はといえば責任を問われることなく常に安泰でいられるのだ。

周縁から中心へ

 “生かしておいて罪の償いをさせた方が良い”というのは、厳罰主義や自己責任論の浸透する社会なら死刑反対を表明するにしても主張しやすい理屈だろう。仮釈放のない終身刑導入を死刑廃止の前段階にという考え方にも似たものを感じる。死刑に反対しながらまた別の厳罰を持ち出すことは全く間違いだ。死刑以外に考えられるより厳しい罰し方を考えようとする、あるいはそのポーズを取るのは譲歩や後退どころか反動的だとわたしは思う。加害や被害をできるだけなくすことや、またそれが繰り返されることを防ぐという目的からは厳罰ではむしろ悪化しか招かない。死刑廃止の立場をとるならなによりもひとの尊厳の話、生命の話を真正面からし続けなければならない。死刑廃止と厳罰は相容れない。死刑廃止は厳罰主義の放棄とセットでなければ成立しないのだ。

 わたしは厳罰を求めるようなものも含めた被害者それぞれの想いを否定しているのではないことは重ねて申し上げたい。できる限りそれらの想いを受け取りたいし理解もしたい。しかしそれとは別に、当事者ではない立場だとすれば何ができて何をすべきだろうかということを考えている。社会としてどうあるべきかということも。それは死刑でも厳罰でも自己責任論でもないはずだ。ひとの尊厳や生命を大切にすることと、死刑や厳罰や自己責任論は全く相反するものだ。むしろ積極的に放棄しなければならない。

 様々にある暴力や差別や抑圧の被害者――わたしを含めた消されがたい癒えることのないかもしれない傷を負わされたみんなに、それは決して自己責任じゃないとこればかりは何度も繰り返し言いたい。またこれは加害者であることやそうなる可能性を含めても同じことだ。様々にある困難な経験を表現するのもしないのも、その主体は常にわたしたちにあるし、周縁ではなく中心にわたしたちはいる。そうでなければならない。誰かが勝手に“終結”を宣言することも線引きをすることも許されるものではないし、そんな権力的制度を押し付けられる筋合いもなければ、また次なる暴力に晒される事態や、加害を出してしまう行為が繰り返されてよいはずがない。誰がなんと言おうと、わたしたちの語りや回復の要求は正当であり、決して自己責任論で退けられる問題ではないのだ。

 

◆参考:菊田幸一 監訳『「被害者問題」からみた死刑』/日本評論社