広島と長崎の式典のスピーチを読んで感じたどうのこうの

 今年の8月6日の広島平和記念式典での湯崎英彦県知事による「あいさつ」*1、8月9日の長崎平和祈念式典での鈴木史朗市長による「平和宣言」*2、両者ともにいたく評判のようです。そこでそれぞれを読んだわたしが思うこと、その共通点からみえることなどを書いていきます。

 

 まず湯崎広島県知事の「あいさつ」。原爆の凄惨さと現在に残る課題、そして鳥取県にある弥生時代の遺跡を訪れたときの個人的体験を現代に照らしてみると、古代から変わることなく戦争が続けられているという現実がみえてくる、と批判的に訴えかけます。

国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。それが弥生の過去から続いている現実です。

特にこの部分の演説中、TVカメラがイスラエルの大使を捉えたとかで話題になりました。おそらくその点からの言及が一番なされているハイライトといえる部分でしょう。 なるほど歴史をみよ、そしてそこから学べということが主旨なのかなと思いました。そうだとすればこの部分、わたしには少々どころか大いに違和感があります。

 “国際法違反の侵攻や力による現状変更”。主語が曖昧なので困るのですが、大方の読み通りロシアやイスラエルのことを念頭にしているのは間違いないでしょう。しかしアイヌモシリや琉球に侵攻し、力による現状変更を果たしたのが今の日本です。台湾や朝鮮、中国や多くのアジアの地に侵攻し、力による現状変更をしたのも日本の歴史です。いやこれは現在の話をしているのだという暴論もあるやもしれません。それなら現在まさに行われているところの沖縄県辺野古への米軍新基地建設という力による現状変更や、同じく沖縄県自衛隊基地の拡大という力による現状変更を行っている日本の暴力についてはどうでしょう。全く当事者性を持って話している態度とは思えません。

 この続きは後にして先に鈴木長崎市長の「平和宣言」に移ります。冒頭は福田須磨子の詩『原爆を作る人々に』からの引用。そして被爆者に負わせられた様々な苦痛とその体験の継承活動に敬意を表するところから始まります。

被爆から79年。私たち人類は、「核兵器を使ってはならない」という人道上の規範を守り抜いてきました。しかし、実際に戦場で使うことを想定した核兵器の開発や配備が進むなど、核戦力の増強は加速しています。
ロシアのウクライナ侵攻に終わりが見えず、中東での武力紛争の拡大が懸念される中、これまで守られてきた重要な規範が失われるかもしれない。私たちはそんな危機的な事態に直面しているのです。

ここも先の広島県知事の「あいさつ」同様、ロシアとイスラエルに関係して注目度が高まる部分だったと思います。両者の間で異なるのは、広島の式典ではロシアの代表者への招待はなくイスラエルの代表者は招待/出席しているが、長崎の式典ではロシアもイスラエルも招待をしていないという点がまずひとつ。もうひとつは広島県知事の「あいさつ」では主語があの形のためその対象が曖昧なままであったところ、長崎市長の「平和宣言」では“ロシアのウクライナ侵攻”と一部明確にしている点です。しかし“中東での武力紛争の拡大”とあるように、こちらについては曖昧な仕方でお茶を濁しています。

 しかしわたしが最も気になったのは、“ 私たち人類は、「核兵器を使ってはならない」という人道上の規範を守り抜いてきました。”の部分です。これは果たしてどういう意味でしょうか。仮にそのような規範があったのだとして、それを守り抜いてきたなどとどうして断言できるのか。核抑止論の話は脇に置いておくとしても、幾度となく繰り返されてきた核実験によって破壊された地や生命やその傷というものはなかったことにして話を進めるつもりでしょうか。“戦争被爆国”という言葉を好んで使用する権力者が支配する国だけに、それは戦争における使用と意味を限定させているつもりなのかどうか。それははっきり言って詭弁ですらあるけれど、それならアメリカや国連の機関はその危険性を否定するあり得ない態度を示している劣化ウラン弾についてはどうなのか。アメリカは何度も戦争で使用し他国に供与し続けているが、いくら“通常兵器”と居直ろうともわたしはあれは核兵器だと思っています。

平均年齢が85歳を超えた被爆者への援護のさらなる充実と、未だ被爆者として認められていない被爆体験者の一刻も早い救済を強く要請します。

その後に述べられるこの部分。 “未だ被爆者として認められていない被爆体験者”というその訴えは、被爆者とそうでないとされるものとを恣意的な線引きによって国が分けている暴力的な現状とその施策への批判となっています。しかし鈴木市長の言う“「核兵器を使ってはならない」という人道上の規範”とそれが守られてきたという前提も、恣意的な線引きを介してでないと成立しません。意識的かどうかは別としても、鈴木市長もそれをしている権力者のひとりなのです。

 広島県知事による「あいさつ」と長崎市長による「平和宣言」との間の共通点は大きくふたつあります。まずそのひとつは、外部に向けて問題を発信したり、外部に問題の所在を求める方法をとっている点です。もちろん、日本政府への批判や要求の部分はどちらもあります。しかし全体としてのあり方というとそれは一部に過ぎません。そして外部へとそのまなざしを誘導する方法というのは、日本政府(内部)へ向けられる批判をかわすために繰り返されてきたことでもあります。それは脱政治化というポリティクスとも相まって、反動的な運動に長年使われてきた手法のひとつでもあります。印象的に使われる鈴木市長の“地球市民”という言葉と、頻度は少ないですが湯崎県知事の“人類”という立ち位置の設定の仕方のどちらも、当事者性を曖昧にしたまま外部の誰かに向けたものになっています。これによってわたしたち自身ないし日本政府という内部に向けるはずのものは周到に回避されます。

 そしてもうひとつというのが上記と繋がるものなのですけれど、日本の加害性への言及が皆無である点です。皆無なので引用して批判しようにも皆無なんですけど、例えば湯崎県知事の「あいさつ」からのこちら

人類が発明してかつて使われなかった兵器はない。禁止された化学兵器も引き続き使われている。

これはそうでしょう。しかし広島県というと軍都だったことでも知られていますが、地図から消された島としても有名な大久野島で製造された毒ガスは中国で使用され、その被害は現代でも続くという最悪な加害の歴史があります。それを知らないなんて言わせませんが、これも問題を外部に向けることで内部の問題を覆い隠している一例でしょう。覆い隠せてなどいないのですが。加えて長崎についても軍事産業で栄えた側面を持っていますが、これは長崎、広島だけの話ではないけれど、“近代化”という名の下に朝鮮など植民地出身のひとたちにどれほど酷い苦役を課したか。生命を奪い、差別し、それでも足らないと歴史歪曲までしているのは誰なんだと。そういうことに一才言及しない欺瞞の塊だと断罪したく思います。

 とにかく批判ばかりしましたが、それでもまだ言い足りないくらいの心持ちです。本当は自分自身に対するあれこれで時間を使いたいところなんですが、こればっかりはどうしたものかと思ったので。しかしこのような聞こえの良い(わたしはそうは思わないけれど)ものは言葉は悪いがガス抜き的に作用するというのも理解はしますが、いやそれすらも何度も何度も繰り返されてきたことでしょうにと思うんです。それっぽいことを言ったことでオールOKみたいなのはもうやめようよと思うんですね。例えば非核三原則だとか宣う裏側で交わされていた密約のことはどうなんだと。沖縄の問題だからとまた切り捨てるのかということなども。これはあなた方の否定する植民地主義そのものなのだと。また言い始めたらキリがないからこれだけはせめて重ねて批判して終わります。