はだしのままに

 『はだしのゲン』を読んでいると、通っていた小学校の図書室を思い出す。古い校舎の端にある絨毯敷きの教室の、いちばん奥の席に座るとみえた外の景色。 たくさんの本のにおい。背表紙に貼られた赤い禁退出のシール。クラスの誰かが隣にいたり、あるいはぽつんとしていたり。そうした思い出が一度に全て呼び起こされる。

 夏休みの登校日は8月6日。広島に暮らしたものにとっての共通する経験として、しばしばこの話題は場の盛り上げを請け負う。広島出身のもの同士であるなら連帯意識、そうでないなら互いのギャップについて楽しむという具合に。 しかして8月6日によって引き上げられることとなった記憶は、わたしにとっての『はだしのゲン』と図書室のように、一部には学校という空間やそこでの生活と深く関係し、あるときには共同体にとっての紐帯としてもてあそばれ、またあるときには排他的に機能し、いまでは過ぎ去った夏休みの思い出のひとつのように顧みられると同時に、いくらか懐古的に語られる向きさえある。

 そんな懐かしい8月6日の登校日の思い出は、閃光に灼かれ爆風に壊され放射能を浴びせかけられた虐殺の、惨い苦しみと怒りを刻みつけられるものであるはずだった――その裏では、いや表裏の別なく。破壊された街で誰に守られることもなく傷つけ合いながら、ひとりひとりに背負わされた憎悪とともに、その後の年月を生きてきたひとたちのこと。排除。差別。暴力。装いを新たに軍都としての姿を覆い隠した平和都市。 草ひとつ生えないと言われた地にみた希望と、軍事基地のために破壊され続ける地に向ける銃口。侵略。虐殺。毒ガス。凡そ言葉にできないほどの残酷と苦痛の数々に、止むことを知らない傲慢と矛盾が染みこんでは膨らみつづけ、支えきれないくらいの重みとなったその大きな塊を、ズシリと受けとる日になる。8月6日はそんな日であるはずだった。そうであるべきだった。

 しかしどうだろうか。“広島県民として”、はたまた“日本人として”、殊に8月6日を前後にしてなされる原爆の語りに与えられるその冠は、一体なにを意味するのだろう。そこから取り除かれた多くの語りがあったはずだろうに。傷つけられたものに突きつけられる刃。非核の幟の裏面にびっしりと書きこまれた密約。歴史歪曲。侵略と虐殺の否定。 生命と暴力と差別に蓋をした、コンクリート敷きの平和公園で、権力者が繰返し嘘をつく姿が画面に映し出されるとき、 “広島県民として”、“日本人として”なにを語ることができたのだろう。なにを語るべきだったのだろう。あまりにも空虚なその響きは、“残酷と不信のにがい都市*1”の中でわびしくこだましている。

 平和都市という名に隠された街の深淵を覗き込めば、そこにはわたしの聴かなかった無数の声が響き、書き留めなかった幾つもの言葉がある。敷き詰めてみえないようにしたはずの、コンクリートの蓋に響く軍靴の音は、その上を歩いてゆくわたしの足音なのだ。排除と差別の果てに“聖域”を作り出そうとした平和都市建設。軍都廣島から平和都市ヒロシマへと“修正“していく歴史の中で、蓋をし黙らせ、なかったことにされた多くのひとびとの生を踏みつけるように、わたしの足下から軍靴の音が響いている。おとしまえをつけよという声はもみ消され、もうよしてくれという言葉の上へとさらに打ち付けるこの靴底が重ねてゆく歩みは、折り重なり轟音となってこの街を、この国を包んでいる。絶えず過ちは繰返されている。

 広く敷き詰められたコンクリートを打ちこわし、厚く閉ざしたその蓋を引き剥がし、“残酷と不信”から目をそらさず、耳をふさがず、踏みつけにしないはだしのままに、廣島に脅かされ、ヒロシマに奪われた多くのひとたちの生を、いつかの “懐かしい思い出“にひとつひとつ刻みつけはじめられたときに、そのときに、ようやくみずからの語るべきことと出逢いなおすことができるのだろう。決してやさしくはなくとも。

 

 inspired by...

中沢啓治はだしのゲン汐文社(全10巻)

栗原貞子『〈ヒロシマ〉というとき』

◆岸佑『「廣島」と「ヒロシマ」の間――平和記念公園の史的研究――』2008

https://subsites.icu.ac.jp/org/sscc/pdf/kishi_41.pdf

*1:栗原貞子『〈ヒロシマ〉というとき』より