『差別する人の研究』

 阿久澤麻理子『差別する人の研究 変容する部落差別と現代のレイシズム』(旬報社)を読了しました。

 「差別する人(側)の研究」という点から現代の部落差別の実態を調査し分析する内容です。特徴としては「現代的レイシズム」という概念を用いている点が挙げられるでしょう。この「現代的レイシズム」に関連する先行書籍としては谷口真由美、荻上チキ、津田大介、川口泰司(著)、部落解放・人権研究所(編)『ネットと差別扇動 フェイク/ヘイト/部落差別』あたりがあるでしょうか。少なくともこの概念を用いての部落差別研究の成果物というもので手に取りやすい一般書はまだそう多くはないと思います。

 「現代的レイシズム」とはいわゆる逆差別言説や特権・利権言説などのように、マイノリティの権利回復運動や左派的(と認識されている)政策などへの反動として登場してきた「新しいレイシズム」の一種です。それはわかりにくい差別としてよく説明されるように、直接的な暴力や暴言という形ですぐさま表れるものではないことから、ともすれば正当な主張や批判の一部であるかのように社会に受容されてきました。さらに差別的なものの表出を避ければ良いという考え方から巧妙に隠された形をとる特徴もあります。それが現代の部落差別のありようにも見いだせるのではないか、ということを実際の自治体や著者が行ったアンケートなどを活用して検証し論じています。

 そのデータの中でかなり重要なポイントだなと個人的に思ったことは、いわゆる「土地差別」とも言われる被差別部落に対する忌避意識が相当根強く残されている事実です。たしかに過去に起こされた差別事件の中にも土地への忌避意識に根ざしたものが多くありますし、閉鎖的だとかこわいだとかの「古典的」な差別意識は今もって指摘されるところです。しかし例えば忌避の理由として「地価が安い」というものがあります。著者はこれを「市場に組み込まれた部落差別」とし、それは新しいレイシズムの中の「社会システムに組み込まれた差別」の典型だと指摘しています。このように社会のシステムに組み込まれてしまってわかりにくくなった、決して「古典的」な差別意識という捉え方だけでは解明できない新しい「現代的レイシズム」の側面からの理解が重要となってきます。さらにそれらは個人の力ではどうにもできないという「あきらめ感」をともなって受容され、直接差別や偏見を表出せずとも「回避」という形で表れるまさにわかりにくい差別です。

 タイトルにもなっている通りこれは「差別する人(側)」について論じられた本なのですが、差別をするのもそれをなくすのも「差別する人(側)」の問題と責任であるというのは、古くからの部落解放運動内における重要な考え方であり活動理念の中心にある思想でもあります。わたしもまあこれについては口酸っぱくというのか何度も聞いた考え方なわけですがとはいえとても正論だなと常日頃から思っていることです。同対審答申*1に立ち返ってみても、それは「差別する人(側)」の問題であるともう何年言い続けられてきた言葉なのだと憤りをおぼえます。しかしそれを放り投げて「もう差別などないのにいつまで―」という「現代的レイシズム」の立場から、部落を訪れては勝手に動画を撮影したり、どこが同和地区であるのかを暴く目的で出版物を作製してみたり、部落解放同盟員の住所をネットに晒したりする者が大手を振っている始末なのです。それらの件の一部は裁判となって闘われていますが、それでもそのコストをなぜ被差別者が払わなければならないのか、実際に名前を出して顔を出して闘うことの辛さはその内容が部落差別であることを考えればそれは容易に想像することができるでしょう。

 差別をなくすことは難しいという先にも書いた「あきらめ感」というものにわたしたちはかなりの程度で支配されています。しかしその「あきらめ感」を作り出しているものも「現代的レイシズム」ですし、それは社会システムによる支配という形でわたしたちはいわば「あきらめさせられている」わけです。そんなことをしている間にも被差別者は闘いを強いられています。まずそれに気付くことです。それには「差別する人(側)」の問題として差別を捉え直す必要が、その責任がわたしたち一人ひとりにあると思うのです。

*1:「同和対策審議会答申」部落問題解決のための基本方針とその取り組みを確認した政府による文書。政府はそれを「国の責務」「国民的課題」と位置づけた。