『慶州は母の呼び声』

 森崎和江『新版 慶州は母の呼び声ーわが原郷』(ちくま文庫)を読みました。

 

 "わたしたちの生活が、そのまま侵略なのであった"

 日本による植民地主義。その"恩恵"に包まれながらその地で育った筆者による自伝的エッセイ。大邱、慶州、金泉と主に1930年代から日本敗戦間近の40年代前半頃までの慶尚北道の風景、風俗、文化、生活などが詳細に生命を感じさせる筆致で描き出されています。色や香りや音、頬に触るそよ風のような微妙な風合いまで伝わってくるほどです。それらはときに牧歌的に響くほど、どこかのんびりとまるで植民地に暮らす植民者(筆者は"植民二世"と自称しています)であるという意識を完全に失しているように思えるほどです。しかし、その牧歌的にみえるような生活こそ植民者のある意味ではリアルと言えるものだったのでしょう。それは権力を持ち権力に守られそこからの"恩恵"を享受している植民者の生き方まさにそのものであったのです。

朝鮮でわたしが食べた米、その米を作るために朝鮮人の農民が四季折々に農業の神に祈りを捧げ、こまやかに神まつりの風習を繰り返していたのだが、それを、わたしは天の川の伝説をなつかしむように眺めるばかりで、労働の実情などまるで知らなかった。端午の節句の日、彼たちもまた子らの成育を願いながら薬草を摘んで漢方薬をこしらえていたのだ。

 朝鮮人と共に働くことのなかったわたしたち日本人、というよりも、朝鮮人を働かせて安楽に暮らしていたわたしたちの祭りといえば、春は軍旗祭、秋は大邱神社祭であった。(P.87)

 日本人の家には使用人がいる。その使用人は朝鮮人。近くに製糸工場がある。その中で働く多くの女性労働者は朝鮮人朝鮮人の通う学校がある。その校長は日本人(筆者の父庫次)。そこに歴然と浮かび上がる権力関係は、搾取と抑圧に明け暮れながら都合良く包摂をアピールしまた都合の良い排除を可能とする。そしてそれら全てを正当化する権力の側で生きているからこそ、その実態が見えなくてもかまわないし、ほんの少し意識を傾けることすらも求められはしない立場にあるのが植民者ということなのです。

 "ぼくにはふるさとがない""どこにも結びつかない"。敗戦後の弟健一の言葉です。この感覚はおそらく多くの植民者・入植者として"外地"で生き"内地"へ引き揚げてきた経験を持つ日本人、殊に著者やそのきょうだいのように植民地で生まれ幼少期を過ごした"植民二世"の日本人にとって広く共有されるものなのではないでしょうか。この引き裂かれる感覚や喪失感のような感情の吐露をみるときに、それはかつて日本が植民地とした地の人々を、コミュニティを、文化を、生を引き裂き、そこから奪ってきた事実と隣合わせの、いやむしろはっきり重なりあった問題なのだとわたしにはうつるのです。それを無理矢理に引き剥がして隠してきた。関係のないことのように、なるべく触れぬよう話題に出さぬようにしてきたのが敗戦後の日本社会だったのではないでしょうか。戦争の“敗者”としての語りを強調するばかりで、“植民者”として得た"恩恵"に温もってきた加害者としての己の顔を隠し続けてきたのです。

書こうと心をきめたのは、ただただ、鬼の子ともいうべき日本人の子らを、人の子ゆえに否定せず守ってくれたオモニへの、ことばにならぬ想いによります。(中略)書いたあとのわたしの心を、また以前と同じ、言いようのない悲しみがおおっていますが、これはその時代の申し子の罰として避けられぬものと、あらためて知りました。(あとがき)

 引き裂かれそうになりながら抱え込んでいる感情と、その核にある多くのとても多くの引き裂かれた人たちの生。そしてそれに向き合ったときの悲しみを“罰”だと表現する筆者。それら全てがとてもわたしには受け止められそうにないほどあまりに巨大なものに思えました。わたしは植民者として得た“恩恵”とその加害性への無自覚を容認する日本社会を批判しましたが、しかしその"恩恵"とはなにも当時を生きた人間にのみ与えられたものなどではありません。その後に"旧宗主国"の人間としてその社会の中で生きながら受けたもの、さらに例えば新植民地主義や沖縄の米軍基地など、今を生きるわたしたちにも大いに関係している問題なのです。このあとがきはあなたたちの問題だよと、それは常に目の前にあるんだよと示しています。

 50年代後半から60年代にかけて、日本の植民地主義や多くの加害についての記憶の継承が当時の若年世代になされていないことへの危機感が本書執筆の動機のひとつらしいのですが、いまやそれらは不の方向へと加速し続け、歴史修正といわれる歪曲を権力者が堂々と行う国に成り下がっています。自らの加害性を隠し続けてきた結果、それらを否定し果てはヘイト言説にまで拡大してしまっているのが日常となっています。そんな社会を作ってきたわたしたちの責任をわたしたち自らに問うていくために、その先駆としてまず筆者自身の立場を浮かび上がらせた本書が描き出したものは、きっと真の意味での"恩恵"となり得るのではないでしょうか。