『乳房よ永遠なれ』

 監督/田中絹代、脚本/田中澄江『乳房よ永遠なれ』を観ました。1955年公開の本作は田中絹代の監督三作目にあたります。

 

 ふみ子は家事労働中にも「おい」と呼ばれるやいなや夫・茂のもとに駆けつけなければならない。健康状態の良くない茂のケア、困窮する生活、子育て、ふみ子には相当な負担がのしかかっている。また茂はふみ子の歌の会への参加をよく思っていないらしく「歌でも作らなくちゃうだつが上がらない」などと酷い言葉を浴びせかける。ふみ子の自由な行動や文化的な生活もそうして抑圧されている。女性・妻・母など、ふみ子にとっての様々な属性や付与されるラベルによって要求される仕事(労働)や役割や振る舞いや抑圧される肉体的、精神的自由。しかし社会からのそのような要求を拒否するとしても、あるいは引き受けるとしても、全て個としてのふみ子の主体的行為であるとして本作はそれらを肯定してみせる。

 茂とわかれたふみ子は二人の子ども・昇、あい子と共に家を出ることとなるが、すぐに昇は茂のもとへと引き取られる形(これも昇が跡取りとしての“長男”だからという家父長制的規範が背景にある)になるなど、家父長制的抑圧はなおも彼女を苦しめ続ける。友人のきぬ子の誘いを断って歌の会への出席を見送ったり、弟・義夫の結婚式を欠席するのは“出戻り”としての他者からの視線/ラベリングによってなされる攻撃などから身を守るためにも必要な行動だったろう。自身の立場は変化したとしても抑圧的構造の中にいることはなにも変わっていない。立つ瀬がない気持ちのままにふみ子はきぬ子のもとを訪ねる。そこで在宅中のきぬ子の夫・堀と会う。堀はふみ子の歌人仲間でかつ友人であり、ふみ子は彼に密かに好意を寄せている。楽しかった思い出話をする中でふみ子の堀に対する長年の思いが溢れてしまうのだが、帰りのバス停まで堀と歩く道すがらついにはっきりとそれを告白する。同時にこのとき「たった一度の見合いで、人形のように飾られてお嫁に行ったんです。愛することの意味も知らずに」と前の結婚についての後悔も口にするのだが、これは家父長制という構造を正面から捉え、苦しみの根源はそこにあることをはっきりとみ据えるふみ子の姿を示している。“愛することの意味”を今のふみ子が知っていると自覚しているのかはわからないが、少なくとも“人形のよう”な状態でそれは知り得ない。この堀とのやりとりは抑圧的構造から自身を解放するために踏み出したふみ子の確かな一歩である。

 堀の急死後、意を決したふみ子は茂の元で暮らす昇を迎えに行く。密やかになされる行為のため半ば強引に連れ去ったようにみえるのだが、家父長という権力と対峙する彼女の姿を明確に描き出している。先の堀への告白や昇を迎えに行く行動には、すこしこちらが冷やりとさせられるほどのふみ子の大胆さがうかがえる。しかしそれを何か特別なエクスキューズ付きで描くとか、その大胆さを埋め合わせるような対になる人物を配置したりして取り繕ったり規範を強化するような描き方はしない。確かにふみ子への様々な抑圧の描写や堀の死など、あるきっかけや様々な背景があるのは事実だが、あくまで本作はふみ子のひとつひとつの行動を丁寧に掬い取り画面に映し出していくことのみに集中している。

 生前の堀の協力もあってふみ子の短歌は中央歌壇で紹介され話題となる。歌人としてこれからというその矢先、ふみ子は乳がんに冒されていることがわかり乳房の摘出手術を受け長い闘病生活に入ることになるのだが、この時期に新聞記者の大月との出会いがある。大月の書いたふみ子についての記事から、その闘病と死に関連づけられた好奇心が作品の評価として表れている可能性を読み取ったふみ子は大月にその怒りや憤りをぶつける。それでも作品を作れと促す大月にふみ子は「お乳のなくなった私に、一体何を作れっておっしゃるの」と返す。“女”であるということは“女流歌人”と呼ばれることよりもずっと価値があると。都合のよい他者のまなざしよりも自身のアイデンティティの重大性を主張しラベリングを拒否してみせる。その後に催されるふみ子の歌集の出版記念祝賀会に彼女の姿はない。当然闘病中のための欠席であることは確かだが、そこに列席する多くの男性たちの姿から”男性による評価”を必要とされる歌壇の家父長制的あり方が浮き彫りにされ、またその構造や“男性による評価”そのものをも拒否してみせるふみ子のメッセージを思わせるようにポツンと空席が置かれている。

 ふみ子の行動の大胆さが際立つのは、堀の家で友人であり堀の妻であるきぬ子が沸かす風呂に入る場面だろう。これはふみ子がきぬ子を訪ねた際に堀が入浴していた過去の場面と対になる。「私のお乳とった痕みてちょうだい」ときぬ子に迫ってみたり、気持ちよさそうに歌を口ずさみながら入浴するふみ子の姿。大月と共に訪れた義夫は「手術してからの姉はすっかり変わったんです。まるで子どもみたいになっちゃいました」とこぼすように言う。抑圧的構造や支配的なまなざしに絡め取られまいと懸命にもがくふみ子のさまが“子どもみたい”と映ったのか、逸脱的にみえるふみ子に困惑する感情の吐露と同時に“男性による評価”がある意味ここでも繰り返される。弟の義夫という血縁関係にあるものが“負目”のような形で自ら先手を打つようにそう話すのも、家父長制的規範から生じる抑圧の結果であるとともに家父長の側からのふみ子にたいする断罪である。しかし風呂上がりのふみ子に膝枕をするきぬ子は、ふみ子の“子どもみたい”な姿を決して断罪するようなことはしない。きぬ子の内面が理解できるセリフは少ないが、それでもあるがままのふみ子を受け止め肯定しようとする姿に彼女にとっての解放への意思表示をみてとれる。そしてそんなふたりの間には、自身を解放しようとするもの同志のシスターフッドが築かれている。

 「変ねえ。お乳もなくなって、胸をやかれた私が、よく眠れたなあって」。大月と一夜を共に過ごした朝ふみ子は言う。鏡を通した間接的視線の交差が幾度か本作では印象的に描かれるが、他者からの一方的なまなざしではなく直接的に両方向からまなざし合うことで生を実感し、さらにジェンダー化された身体から自らを解放するような言葉とともに幸福を噛み締める。大月とのこの水平的なまなざし合いこそが家父長制的規範を解体する行為であり彼女自身にとっての解放でもある。そこにふみ子という個が存在しているという事実、ふみ子自身がその感触を確かなものと抱きしめている姿にいかなる説明も必要ない。そこにあるのはふみ子という実存である。

遺産なき

母が唯一のものとして

残しゆく死を子等よ受けとれ

 生命が尽き病室から運ばれてゆくふみ子を追う昇とあい子のふたりは閉じられた鉄柵に阻まれてしまう。昇が「お母ちゃん」と叫ぶこのショットは、子どもたちを正面からみつめるふみ子の側の視点。しかしよくみると“目が合う”状態ではない。言ってしまえば昇とあい子はカメラ目線ではない。もっと遠く奥の方をみようとしている。この両方向からのまなざし合いがもはや成り立たない描写は、この世から、ふたりのもとから去って行くふみ子の死を強烈に印象づける。子どもたちに残した引用の一首を彼女の声が詠いあげるとき、そこで“残しゆく死”と彼女が表したその死を、鑑賞者であるわたしたちも確かに受けとる。

 なるほど確かにこれも“女が死ぬ話”の一種だ。しかしその死は誰かのための犠牲でも誰かに捧げられるものでもない。その死によって何かの“気づき”を得るなどのような、他者による一方的な彼女の死に対するまなざしや消費は描かれない。そもそもそのようなものは必要ない。描く必要があったのはふみ子の生と死だけだ。その生と死は彼女だけのものである。何かを選び、受けとり、拒否し、求めるふみ子という個の主体性を尊び、確かにそこで生きそして死んだふみ子の実存を肯定する。『乳房よ永遠なれ』とはそんな物語だ。

 

 冒頭のシーンで成瀬巳喜男『めし』を彷彿とさせるものを感じて、田中澄江脚本という共通点もあって興味深く思いました。まあ実際本作を最後まで観ると全然違ったんですが、それでも気になって『めし』の方も観返してみました。するとやっぱり全然違ったんですけども、いや実に好対照な作品だなとちょっと驚くほどでした。本作の評の中で“(ふみ子の)大胆さを埋め合わせるような対になる人物(はいない)”という表現をしましたが、『めし』においては主人公の三千代にとっての対となるキャラクターとして里子がいます。彼女の家父長制的規範からの逸脱性というものは終始“悪”として描かれていますが、そういう人物を配置することで主人公の安定性を一方では補強する。そして例えば三千代の弟の信三による説教の場面など、その“悪”を懲らしめるというカタルシスを狙っている面もあるんじゃないかなと。多分にミソジニスティックな表象でもありまが、一方で本作のふみ子はそんな里子のキャラクター性をも取り込んで、しかもそれを肯定しているという大きな違いがあります。最終的に家父長制的規範の中での“女の幸福”というものを三千代が発見するという回収の仕方も、本作と全く対照的なものだと思いました。

 日本映画全盛期ともいわれる50年代のちょうど真ん中、第二波フェミニズム前夜という時代背景からして、本作の意義というのは単にいい作品がそこにあるという以上に大変大きいものだと思います。今なお新たな点からの批評の可能性が開けているし、今だからこそもっと多く観られてたくさん批評されて欲しい作品です。また本作を含む田中作品を作家論的な位置から論じたものが、児玉美月、北村匡平『彼女たちのまなざし 日本映画の女性作家』に収められているのでそちらも良かったらぜひ。

誰の感情なのか

 死刑反対の表明をすると必ず"被害者遺族の感情は"という言葉を投げかけられます。そして加害者擁護や加害の矮小化という全く別の方向へ歪曲され、やがてとても冷酷なやつだというような評価をいただくことも茶飯事です。被害者遺族の感情など軽々しく話せるものではないはずなんですが、それでもそれをあたかも自分は理解しているかのように持ち出してくるあたり、わたしには非常に傲慢な態度に思えます。はっきり言ってしまえば、被害者遺族の感情はわたしにはわかりません。わかるはずがない。仮にわかるとしてもそれが死刑制度を肯定する理由になるとは思いません。逆に遺族という立場から死刑に反対する人たちに対して、わたしたちの社会はその訴えを無化するかあるときは攻撃の対象にして否定さえしてきました。それが被害者遺族の感情を尊重する態度といえるでしょうか。お前はわかるのかと人に迫るしかくなど誰にもないのです。

 国家が暴力を独占しているということがこの死刑制度にまつわる問題のひとつなんですけれど、それは私的な場での報復、復讐的な暴力を防止するためという説明もなされます。国家による刑罰という暴力が肯定される建前としてはそういうことです。被害者、遺族と刑罰との関わりでは裁判における被害者参加制度があります。事件の被害者や遺族が公判への参加を裁判所に申し出た場合、一定条件下でそれが認められるという制度です。しかしこれは先に述べた私的な報復という点や公正さ、無罪推定の問題など様々な立場から批判がなされている制度でもあります。それに加えて、そもそも死刑が関係する裁判であるからといって特別な手続きが要求されるということもない日本の司法制度の問題もあります。日本の裁判員制度だと有罪無罪だけでなく量刑まで裁判員が関わります。しかも全員一致ではなく多数決という方法です。それは死刑が関わる事案でも同様です。人の生命を国家の暴力によって断つのか否かという判断がなされる場でさえ、手続き上なんら特別なものとして扱わないのです。このような中でなされる被害者参加制度のもたらす悪影響は非常に深刻な問題だと考えます。被害者や遺族に必要な具体的な支援やケアが全く不十分であるにもかかわらず、こういう制度はその問題点をおざなりにしたまま押し通す。負担ということではむしろ増加してさえいます。これでは一体誰の"感情"を考慮しているといえるのでしょう。それは第三者であるわたしたちの"感情"のためのものではないのかとさえわたしは思います。

 なんらかの"犯罪"とされる物事が起きたとき、その残虐性が顕著なものであればあるほど自分には理解しがたい無関係なものとして距離を取りたいということはよく理解できます。しかしそれで一体何が解決しどう社会が変わっていくといえるのでしょうか。死刑が執行された後にその関係する事件のことがどれだけ語られるでしょうか。マスメディアがどれだけ報じるでしょう。ほとんどなされないですよね。そうしてみえないように蓋をして葬り去る。死刑とはそういう制度です。みえなくなったことをわたしたちは“治安の維持が今回も達成された”とみなしているだけなんです。また、よくわからないものとある属性を紐付けることで何かを理解したつもりになり、その属性と結びついたよくわからないものごと排除することをまた“治安の維持”として確認しあい安心する。そこでは"懲らしめ"の情熱が沸き起こり、それを利用して揺さぶる権力は自らの暴力を最大限に正当化することでしょう。つまりここでも優先されているのはむしろわたしたちの"感情"の方なのです。

 先日”被害者遺族の感情”と近い考え方の"あなたの家族が被害者ならー"という反論をいただきました。わたしはまずこのように誰かをわたしが所有しているものかのように考える権威主義的な態度を拒否したいですし、そもそも家族なるものが基本単位かのように当然のごとくそれを持ち出す家父長的あり方も拒否したいのでこの言説にはのりませんけど、ここでもやはりいま現に存在する被害者のことではなくて自分の"感情"に照らして思考する、あるいはそう思考せよと促しているわけです。わたしの家族がと想像すればある被害や被害者のことがわかるはずだなんて思い上がりもはなはだしい。これは個を否定している行為でもありますし、想像ではなく現に起きたできごとやある存在の話をすべきなのにです。これは被害のことにも加害のことにも向き合っている態度とは到底いえません。同じことが繰り返されてはならないと何度もいいながら、それと向き合うことを断ち切って葬り去る死刑制度を維持する社会を肯定することの間に矛盾が生じてもいます。むしろ向き合うことを拒否しているかのようです。

 余談なんですけど、この“あなたの家族がー”に対して仮に別にそうであっても何も意見は変わりませんと答えたらどうするんだろうかといつも思うんですよね。ちなみにわたしはそうであっても何も問題はないと思うのですが、しかしそうなると差し詰めわたしを極悪人に指定するしか道はなくなるわけで、ただでさえ死刑反対ということで悪者なのにさらにという大変忙しい事態が巻き起こるなあとか思ったりします。ということは結局これは相手を追い込んでしまえという発想にすぎず、議論なんて元々するつもりはないのでしょうからのっかったって仕方のない話ですね。

 

 誰かを選別して排除し殺してもいいという思想や、それらの暴力を独占している権力を支持しているということは、自らもそれに加担しその権力を有する当事者でもあるということです。これも日本の司法制度の問題点のひとつですが、執行後に発表されその実態なども完全に秘匿されている死刑制度にある意味守られる形で、全くそこをみなくても触れなくても考えなくてもいいように、殺人に自分が間接的にでも加担しているのだという事実にも向き合わなくていいようにこの社会はできてしまっています。こんな恐ろしいことはないとわたしは思います。死刑制度に反対しているわたしもその例外とはならないのですから。間接的にといいましたが、当然その一方では直接的に関わる刑務官等にかかる負担もまた重大な問題です。そうした問題すべてを明らかにしたうえで早急に死刑制度廃止の議論を進めることがいま求められていることです。

 

コジコジはコジコジ

 TVアニメの『コジコジ』(原作さくらももこ)を観ています。結構久しぶりというのもあって懐かしさと共に作品との出会いなおしをしているような気分です。

 “コジコジは生まれた時からずーっと将来もコジコジコジコジだよ”このかなり有名なセリフは第一話の『コジコジコジコジ』に登場するものです。学校の先生がまるっきり勉強しないコジコジに説教する場面で“…コジコジキミ…将来 一体何になりたいんだ それだけでも先生に教えてくれ”と言ったことへの返答です。

 コジコジの暮らすメルヘンの国というのは実に多様なキャラクターの住む世界で、コジコジや半魚鳥の次郎くんなど見た目からかなり個性的なキャラクターもいれば、正月くんやおかめちゃんのようにほとんど人間と見分けるのは難しいけどどうやら人間とは違うらしいキャラクター、またジョニーくんのような人間界出身のキャラクターもいます。そこでの暮らしもまた多様かつ自由な雰囲気のある空間でなされているようなのですが、しかしその中にある学校という場やその設定はこの世界にとってかなり重要な意味と機能を持っています。

 先生は教壇でコジコジら生徒に向かってこう言います“メルヘンの住人は人間を楽しませる使命がある それがメルヘンの住人の役割なのだ”自由に暮らしているように見えてメルヘンの住人には“使命”と“役割”があるというわけですね。かなり自由度の高そうな世界だと思いきや急に不穏な空気が漂ってきます。ふしぎなキャラクターの暮らすふしぎな世界を抑圧的に管理・監督する権力機関といえばちょっと恐ろしい表現ですが、しかしメルヘンの国の学校というのは、日本のある地方の学校に通ったり通わなかったりしてきたわたしにはかなり馴染み深いあまりに学校然とした姿です。おもしろいのは、この先生というキャラクターはロボットっぽい見た目なんですが、その他の職員室にいる教職員とみられるキャラクターの見た目はしかしどう見ても人間的なんです。“人間を楽しませる”という“使命”と“役割”というセリフを思えばとても怖いですよね。それを達成するためにメルヘンの住人を規範的に教育し管理し抑圧している人間の姿とみれば植民地主義批判としての読みも可能でしょう。それはメルヘンの国に置かれた“人間界”のメタファーと言えるのかもしれません。

 しかしそんな管理と抑圧をもたらす権力機関である学校とその象徴としての先生が“遊んで食べて寝てるだけだよなんで悪いの?”とコジコジに返されると上手く対応できずタジタジになり激怒します。そして“コジコジコジコジ”という言葉が飛び出してくるわけですが、それはコジコジがメルヘンの住人に課せられた“使命”や“役割”から解放された自由な存在、権力が作り出す秩序や規範からは逸脱した存在であることを示しています。そしてその逸脱性は権力を打ち負かしその関係を転覆させることができる力を持つのです。これに対し“真理だ…負けたぞ 先生の負けだ”とかなり先生はショックを受け、このやり取りを窓の外から覗いていた次郎くんとコロ助も感動して心打たれている様子が描かれます。抑圧的な構造を知らぬうちに受け入れ内面化させている自分自身に気づいた衝撃と、その構造を破壊し解放させる力を持つ逸脱性へのあこがれが、“コジコジコジコジ”を感動的な言葉として響かせます。

 “コジコジコジコジ”に大変感動した次郎くんは自分もそれを取り入れようと試みます。その夜28点の答案に激怒したお母さんは“あんた将来立派な半漁鳥になれなくてもいいのかいっ”と次郎くんに詰め寄ります。それに対して次郎くんは“…フフフかあさんオレ 次郎だよ 次郎は今も将来もずっと次郎なのさ”と答えるやいなや“ずっと次郎じゃ困るんだよ”とぶん殴られるという散々な目に遭います。このくだりがこの一話のオチになるのですけれど、この上手くいくはずだった言葉や態度をタイミングやその使い方を間違えることで結局失敗するというパターンから、これはどうもドラえもんガチ勢としては『ジ~ンと感動する話』*1を思い出さずにはいられませんでした。テストの点数に落ち込むのび太(ここでもテストか!)に先生が“目が前向きについているのはなぜだと思う?前へ前へと進むためだ!ふりかえらないで。つねにあすをめざしてがんばりなさい。”と声をかけはげまします。その言葉に感動したのび太はその話を他人に披露しようとするのですが、タイミングが悪かったりして相手にされず、ドラえもんに聞かせるときにも“目が前についているのは前に進むためなんだよ”という言い方をしてただ困惑させるだけになってしまいます。このくだりは何を話してもみんなを感動させることができる“ジーンマイク”という道具が登場するまでの導入部なんですけど、この微妙な言葉の使い方や間の悪さによる失敗をおかしく表現するという語り口は共通点として指摘できます。

 ここでいかにも強引にさくらももこ藤子・F・不二雄の共通点としての落語を元に考えてみることにします。ふたりともかなりの落語好きとして知られていますね。作品にも落語の要素を取り入れているものが両者ともに結構な数あります。だからむりくり落語の話に持ち込みます。さて落語でこの言葉使いと間の悪さというと例えば『時うどん』という有名な演目があります。これはうどん屋で詐欺的なトリックを使って代金を上手くごまかした者を横でみていたその連れが、自分もそれを真似ようとするけれど根本的にその方法などを勘違いしていたりするあまり結局失敗するという滑稽話です。この話は上下の権力関係によって生み出される落差を笑いにしているのですが、例えば“旦那と番頭”のような二人の間の権力関係が物語の構造の土台になっているというのは落語で度々採用される型のひとつです。支配者×被支配者という構図やエリート×非エリートの場合もあります。*2またこれを逆転させた演目*3もあるのですが、権力・権威を持つ者とそうでない者との間の摩擦が、桂枝雀の言葉を借りれば物語に緊張と緩和を生み出しているというわけですね。『時うどん』の場合は権力関係的に上の立場の者の立ち回りが全体に緊張をもたらし、それを下の立場の者が模倣する様や失敗する過程が緩和をもたらすことで落とすわけです。

 この権力関係による緊張と緩和を『ジ〜ンと感動する話』に当てはめてみると、まず先生が話すという行為やその内容が権威付けされ緊張をもたらし、のび太の失敗の連続が緩和をもたらしています。その後に登場するジーンマイクの力でのび太の話すことにみんな感動するという事態が巻き起こるのですが、このマイクがここでは権威を象徴するアイテムとなります。つまりどんな“くだらないこと”でもこのマイクを通すことでみんなが感動する言葉となる。そのように人々の感情や行動をコントロールする権威なのです。裏返せばそのような構造を浮き彫りにすることで、権威そのもへの批判と茶化しを表現しているといえるでしょう。このように権威に対して権威化されていないものをぶつけた際に起こるショックが、つまり両者の権力関係によって生じる反応が物語の核心的部分となっています。

 では本題の『コジコジ』についてはどうかというと、コジコジは権威や権力とは真逆の、はてはそれらの作り出す秩序からの逸脱性を持ったキャラクターだと先に述べました。最初に先生という権威からの抑圧という緊張があり、それに対する“コジコジコジコジ”という対応が緩和にあたると読めます。しかしこのセリフにより喚起される次郎くんとコロ助の感動からわかるように、ここで起こることは緩和による笑いではなく感動という抑圧とはまた別種の緊張だとわたしは考えます。物語のハイライトであるとともに、一話全体としての緊張も最大に達している場面なのです。その直後に先に述べた次郎くんの失敗があるのですけど、ひとつの場面上の緊張はお母さんの詰め寄りによって起こっていますが、物語全体としての緊張がのその直前に置かれていることによって全体としての緩和=オチという構図になっています。

 コジコジと先生のやり取りのひとつひとつをみると全て緊張と緩和の形で成り立つ、権威を茶化すかたちで笑いに還元するものであることは確かなのですが、しかし“コジコジコジコジ”という言葉が提示されたときにその茶化しというものはあくまで受け手の解釈の問題であって、まさにその言葉通り最初から“コジコジコジコジ”だったんである!というそのストレートかつシンプルな“真理”を見出したときに起こる心の動きが感動となり緊張となる。これも受け手の解釈次第であるといえばその通りではあるんですが、この感動と緊張との関係はそのようなところから湧き上がるものだとわたしは解釈しています。当たり前の言葉に解放される感情とは、先に述べた通り“逸脱性へのあこがれ”と抑圧的な社会構造の内面化に起因すると思います。その当たり前を気付かせてくれるコジコジという存在とその“コジコジコジコジ”という言葉が、物語に緊張と緩和、言い換えれば抑圧と解放を描き出しているのです。

 

 なんらかの規範から逸脱していること。それを肯定するコジコジという存在に惹かれます。コジコジには逸脱しているつもりすらないのかもしれないけれど。しかしその存在がすでに抑圧への抵抗となっているなんて最高にかっこいい。規範から逸脱していることに勝るものなんてない。そんな力を与えてくれる一方で、ほんとに謎だらけのふしぎな存在というのも惹かれる理由です。なんだかよくわかんないものが結局ほとんどよくわかんないままなんですね。それが実に心地いい。他のキャラクターにしたってそれは共通していて、謎は謎で別にいいし理由なんてあってないようなものでそれを特に説明したりされたりする必要もそんな謂れもない。それこそよくわからない謎だろうがふしぎだろうが“コジコジコジコジ”ということですね。現に存在する誰かのことやわたしのこと、確かにそこに見えるふしぎなこと、おもしろいこと、くだらないこと、みんなまぼろしじゃないぜ!

*1:てんとう虫コミックス第9巻

*2:例えば『代書』。代書屋/エリートと依頼者である労働者/非エリートとの間の権力関係によってすれ違うコミュニケーションが物語の中心的部分ではあるが、しかしこの演目の場合は非エリートのペースにエリートが徐々に巻き込まれていき翻弄される様も笑いとして表現している。

*3:例えば『寝床』。余談だがドラえもんジャイアンの歌にみんなが気絶するというギャグはこの演目を元にしているのではないかと思われる。

『ミツバチと私』

 監督・脚本/エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン『ミツバチと私』を観ました。以下本編の一部内容に言及している箇所があります。

 

 カメラを向けられるのが苦手です。自分の写る写真を見ることも。自分の姿が好きではないということもあるんですけど、こちらを鋭く射抜くように向けられたレンズを見るときどんな表情をしていればいいのかわからなくて、どの姿勢が好ましいものとされるのか皆目わからずただモゾモゾするばかり。しかし自分がファインダーを覗く番となるとそんなことはすっかり忘れてしまい、撮ることに夢中で撮られる苦痛を考えなくなるんですね。それどころか、こっちを向いてとか笑ってとかもっと光量をとか風よ止まれとか、ファインダーの中の被写体を自分の思う通りにコントロールしようと試みたりします。

 映画の後半あたりにカメラをこちらに向ける女性の姿を描いた大きな絵が出てきます。この社会でカメラがマイノリティに向けられるとき、証明しろ定義してみせろと迫ります。確実に現にあるその存在を否定し、自分のコントロール下で思うままに仕立て上げるまで拒否し続けます。そんな無数のレンズが常に向けられるという苦痛をも認めることはしません。絵の中でレンズをこちらに向けファインダーを覗く人物の顔はわかりません。しかしそこに当てはまる人物のひとりはわたしだと思いました。

 終盤のルシアが姿を消す場面。その直前に行われる集合写真の撮影。そうか、今までずっとずっとそうしてレンズはルシアに向けられていたんだ。それはおかしい正しくいろ何が不満だなぜだどうしてだ。何度も何度も繰り返されるこうしたルシアへの攻撃は、映画の始まるずっとずっと前から彼女を責め続けてきた。彼女がいなくなるまで、陽が沈んで辺りが暗くなるまで誰もそのことに気づかなかった。気づかないふりだったのかもしれない。いや少なくとも叔母のルルデスは気づいたひとりではある。しかしその存在にわたしはある種の役割を委ね押し付ける一方で勝手に安心したまま自分の持つカメラを手放すことはしなかった。いやその社会構造の中にある地位を手放さなかったといった方が正しいのかもしれない。

 映画前半にあるトイレの場面、姿を消したルシアを探すときに連呼される彼女のデッドネーム、本当に苦痛でした。辛かった。ある人の存在そのものが否定される瞬間を何度もみるこの辛さというものは、映画を観終わって何時間経とうとも消えることはありません。それは毎日のように特にSNSで繰り返されるそうした攻撃を目の当たりにしているからというのもあるでしょう。人の存在を否定するな。排除するな。これを言い続けて抵抗することはわたし個人の闘いでもあるのですが、しかしこんな(クッソくだらん滅びろとほんとは思ってる)社会を変えることは全く可能なことですし、みんなでやろうよってめっちゃ綺麗事本気で大好きなわたしは思っています。今すぐ変えなければならない。変えましょう。みんなで。

2023年の本10冊

•『ホワイト・フェミニズムを解体する インターセクショナル・フェミニズムによる対抗史』
カイラ・シュラー (著), 飯野由里子 (監訳), 川副智子 (訳)/明石書店

•『ウィッピング・ガール トランスの女性はなぜ叩かれるのか』
ジュリア・セラーノ (著), 矢部文 (訳)/サウザンブックス社

•『教育勅語御真影 近代天皇制と教育』
小野雅章/講談社

•『アリとダンテ、宇宙の秘密を発見する』
ベンジャミン アリーレ・サエンス (著), 川副智子 (訳)/小学館

•『母を失うこと 大西洋奴隷航路をたどる旅』
サイディヤ・ハートマン (著), 榎本空 (訳)/晶文社

•『新版 慶州は母の呼び声 わが原郷』

森崎和江(著)/筑摩書房

•『第二の性 決定版』
シモーヌ・ド・ボーヴォワール (著), 『第二の性』を原文で読み直す会 (訳)/河出書房新社

•『妾と愛人のフェミニズム 近・現代の一夫一婦の裏面史』
石島亜由美 (著)/青弓社

•『被害と加害のフェミニズム # MeToo以降を展望する』
クォンキム・ヒョンヨン (編著), 影本剛 (監訳), ハン・ディディ (監訳)/解放出版社

•『検証ナチスは「良いこと」もしたのか? 』
小野寺拓也 (著), 田野大輔 (著)/岩波書店

 2023年に出版されたものに限っています。クィアスタディーズやフェミニズムに関連する本で良いものをよく読んだなという印象です。全体的にはセクシズムやレイシズム植民地主義の問題への関心が通底しているところかなと。アリとダンテが唯一の小説なんですけど、新作の小説をあまり読んでいないと思ったので、来年はみんなのおすすめするものに積極的に接してみようかなと考えています。

『秘密の森の、その向こう』-Petite Maman

 セリーヌ・シアマ監督『秘密の森の、その向こう』(原題:Petite Maman

 結構前に実は一度観ているんですが、もう一度観てやはりすごく好きな映画だと改めて思ったのでそういうことを書こうと思います。

 

 8歳のネリーは母親と父親と共に亡くなった祖母の家の整理のために森の中の一軒家を訪れる。一夜明けたところでネリーの母マリオンは理由を告げず突然姿を消してしまう。そんな中ネリーが森の中で遊んでいると、同じ8歳で容姿のとても似た母と同じマリオンという名の少女と出会うー

 

 セリーヌ・シアマ監督というと『燃ゆる女の肖像』が有名ですね。わたしもそれにとても衝撃を受けた数多くのひとりでして、それから過去作も観られるものは観ていたんですが、今作についてはおそらくわたしの人生においても相当に大きな位置を占めることになるだろうなと思いました。

 ネリーが幼い頃の母マリオンと出会うというとすごくSFとかファンタジー感が強調されますが、何か物理的とか科学的な説明がなされるようなそんなものではなく自然になんの気無しにふっとその瞬間が訪れるわけですね。これは藤子・F・不二雄の短編なら『ノスタル爺』とか『山寺グラフィティ』みたいな、特に理由は説明されないが唐突に超常的な現象が起こる“少し不思議”な物語という格好です。わたしはこの類が好物でして、特に理屈とかそんなものはどうでもよくなんでかそうなったけど凄いことが起きたし楽しかったしドキドキしたねで十分なんです。そういうふうに割り切ってくれる作品である時点でもうなんならベストなんですね。

 そしてこれは驚きと喜びが混ざり合っているのですが、極個人的なことでわたしは自分の母親の子どもの頃のことを勝手に想像するということを昔からよくしていました。特に写真などを多く見たということもないし、少し子ども時代の話を母から聞いた程度の知識でしかないけれど、それでもフルで想像力を使ってこんなことしていたかもとかこんな話し方かもとか頭の中でよくやっていました。そしてこれは他人には話そうとも思わないしそんな機会もなくずっとわたしの中だけのこととしてしまっていたのですが、この映画でやっていることってもしかしてあれなのか?というわたしの経験を肯定してくれている感覚がありました。わたしだけではなく結構多くの人が似たようなことをしていて、それがネリーとマリオンの出会いという物語の源泉のひとつでもあるのかもしれないと、とても驚いたしすごく嬉しかったんですね。

 ネリーはかなり察しのいい人物で、これは何やら怪しいぞと多分マリオンと出会ったときから気付いていて、過去の家に招かれたときに色々と確認して回る。この映画は72分ととてもコンパクトな作品で(個人的にこのくらいの100分以内ほどの映画が好きなんですが)それでも説明的にはただ壁紙を写すとかだけでも十分足りるところをちゃんと演技を含めて丁寧に見せるということがとても大事なんだなと思います。こういうところで監督が何を重要視しているのかがすごく伝わってきます。物語を観ているというよりも人を観ているという感覚。こういう話だからこういう画で進んでいきますというのではなく、こういう人たちがそこにいるということを観ているわたしという関係性が生まれることにわたしはとても心地よさを覚えます。

 お父さんの話が聞きたいとネリーが尋ねてもなかなか話さないというくだり。父親は少し考えて「お父さんが怖かった」と言うだけなんですが、ここも興味深い場面でした。というのも、話さない理由は話したくないのか苦手なのかもしかするとジェンダーの問題もあるのかと色々考えられますけれど、大人は自分の語りなど大したことではないと勝手に思い込んでいるところが結構あると思います。子どもが聞きたいのは別に大きな舞台装置で大活躍する冒険譚に限ったことではなく、なんてことはないただ美味しかった話とかおもしろかった話とか困った話とか例え小さな話でもそのうちに入るんです。ネリーとマリオンふたりのシーンをみると、ボードゲームをしたり料理をしたりといった日常的な風景にしっかりフォーカスしていることがわなります。そういうもしかすると語られないかもしれない細かなところも人生の重要な要素だなと感じます。「お父さんが怖かった」と言ったあとすこし長めに時間を取って沈黙のままカットになるんですが、これはコミカルに映ると同時に小さな語られなかった話についても思いをめぐらせるための余白となる効果をもたらしています。そして怖かったお父さんからそれを引き継いではなさそうだという安心と、むしろネリーの意思を尊重する父親としての姿が強調されてみえます。

 ネリーは察しがいいと書きましたがそれは子どものマリオンも一緒で、ふたりが色々な物事を考えたり感じ取ったりしている様子というものは例えば先に書いた沈黙のような演技からも読み取れるものなのですが、子どもの思考や感受性を全く軽んじることなくむしろ深くそこに迫るその描き方には敬意さえ感じます。『思い出のマーニー』のアンナとマーニー、『ふたりのロッテ』のルイーゼとロッテを関係性だけではなく敬意を持った描き方という点からも彷彿とさせるものがあります。またそこから読み取れるクィアネスやシスターフッドという部分も作品として共通していることでしょうか。あと『ミツバチのささやき』のアナとも、黙っていてもすごく考えたり感じたりしている姿などよく似ているなあと思います。大人が考えている以上に子どもはあらゆるもの考えたりみたり感じたりしています。至極当たり前のことではあるんですがやはり忘れがちですよね。それにことさら無垢な存在として描く必要もまた特になくて、なにより必要なものは敬意であると改めて思い出させてくれます。

 ふたりのシーンについて考えていたら、あんまり印象的なものばかりなので列挙に次ぐ列挙になってしまい収拾がつかないことになります。それでもやはり後半のふたりでクレープを作るところはすごい。ただふたりでわいわいやってるだけなんですけれどこんなに幸福な感情を呼び起こしてくれる映像は他にないでしょう。映画史に残りますねこれ。いや残そう。あと前半にパドルボールでネリーが遊ぶ場面ですが、あのものすごいぶん殴るみたいなラケットの振り方が最高に好きです。それでボールが飛んでいった先にマリオンとの出会いがあるので結構重要なところなんですが。そして全体としてセリフはそれほど多くなくても、ふたりの交差する目線や笑い声、並んで歩く後ろ姿など本当に素晴らしいですよね。わたしは極度に説明的なものを嫌う傾向にある人物なんですが、こういったいくらでも考えやイメージが深められたり広げられたりできる作品はやはりいいですね。

 この映画はおわかれに始まって最後にもう一度おわかれ、そして出会い直しをするところで終わります。「さようなら」から始まるネリーの物語は「マリオン」というセリフで締めくくられます。それに呼応するマリオンの「ネリー」というセリフによって全く新たなふたりの関係性がこの出会いから始まります。“親子”なんていう説明など必要ない深く相手を思うふたりの人間がそこに描かれます。いままでのふたりではもうないという意味ではこれもおわかれの一種かもしれません。この最後の数カットが本当に素晴らしく、がらんとした部屋にぽつんとネリーが座っていて画面も結構暗いんですけど、だからこそ人物が浮き上がるし穏やかだけど緊張感がある独特の空気があります。それになんかちょっと最初は気まずいんですね。それは数日ぶりだからなのかもしれないし、このときにネリーが子ども時代の自分と出会うことをわかっているからなのかもしれません。このふたりの場面まででほんの3日ほどの時間の話なんですが、それ以上に長い年月、マリオンの8歳から現在までもそうですしネリーとのこれからまで含めて長い長い時間の想像が可能です。これだけコンパクトなサイズの映画で、物語内の時間も短いにもかかわらずいくらでも広がる世界を感じることができるのは、丁寧な作品とはよく言われるけれどまさにこれこそがそうであるからだと言えます。この素晴らしい作品をわたしはずっと大切にしていきたいと思いますし、みなさんにもぜひ観てもらいたいなと思っています。さようなら。

『ヴィーガンズ・ハム』

 『ヴィーガンズ・ハム』(原題:Barbaque)を観ました。監督・脚本はファブリス・エブエ。マリナ・フォイス演じるソフィアと共にヴァンサンという役名で主演を務めています。

 

 ソフィアとヴァンサンの経営する人気のない精肉店が「過激派ヴィーガン」によって襲撃される。後日その襲撃者のひとりと目される人物をヴァンサンが車でひき殺してしまう。その遺体処理の際に起きた錯誤から店舗で提供されてしまった人肉が評判を呼びたちまち人気店舗となる。その後ふたりはヴィーガンを殺害しその肉を売ろうと画策することになるのだがー

 これはいわゆるB級の枠組みの作品で、かなり露悪的、暴力的描写が連続するコメディなんですが、そういう作品にありがちなジェンダー、民族、宗教に対する偏見や差別的な表現が多く使用されますし、政治的イデオロギーないし行動への偏見や侮蔑的表現も登場します。まずなによりこの憎悪扇動的な日本語タイトルの時点でかなり問題があると思いますが、ヴィーガンヴィーガニズムに対するステレオタイプ的表現、中でも精肉店を襲う“過激派”としてのヴィーガンのあり方などが典型的で、特にネット空間で頻繁に出合うような言説から想像できる表現が数多く出てきます。

 ソフィアとヴァンサンの娘クロエのパートナーであるルーカスの“思想の押し付け”的な、また肉食する者への軽蔑的な態度などもそうした偏見のうちのひとつなんですが、さらにここでの悪に奪われる娘という構図によってヴァンサンの家父長としての側面や家制度という枠組みが浮かび上がります。若年女性の思想は男性からの影響というかなり古典的タイプのセクシズム、また後半クロエが“転向”するような言動をみせる場面があるのですが、それも女性の持つ思想そのものを軽んじるような侮蔑的な表現であるしそもそも主体性を大いに剥奪している描き方です。またヴァンサンを殺人の道へと引き摺り込むソフィアのファムファタール的演出、殺人の直接的動機に性愛を結びつけたりなど、とことんまで古臭いことが次々と飛び出してきてそれに辟易とするほどでした。

 しかし最後まで観ていくと、最初からこれら全てを皮肉った表現だった可能性が示唆されていることも確かです。SNSでもそういった感想が少し見られましたが、わたしはそれだからこそとても不誠実というか卑怯な振る舞いだなと強く感じました。ある種のどっちもどっち論ではないですが、批判をかわす目的もあってか筋の通った主張らしきものは何もありませんし、それどころか徹頭徹尾傍観者的な嘲笑のスタンスで全体が成り立っています。撮り方に登場人物に感情移入させないような意図を感じたのも、観る者をその位置に置かなければコメディとしてそもそも成立しないからでしょう。ここにあるのは皮肉のきいた笑いなどではなく、特定の人物を異化した末のせせら笑いです。

 

 結論なにひとつおもしろくなかったのですが、ここに書ききれていないほどの差別、偏見描写はまだたくさんありますし、細かいギャグとなってうんざりするほど散りばめられているので本当に観るには注意が必要です。ていうか観なくていい。代わりにわたしが観たし。

 正直に言うと批判する目的で観たんですけど、あまりにつまらなくて途中で寝落ちして、ハッと気づいて少し戻ってというのを何回か繰り返してしまったほどでした。これを書くときも実は最後の方がぼんやりしていてこれはまずいと思い部分的に見返したんですけど、まあ見返す前より増してつまらない印象が強くなるだけという散々な結果でしたね。それで何を書こうかと思っても驚くほど書きたいことがなくて、それほど空虚な時間を過ごしてしまった後悔先に立たずというわけで。誰にもおすすめしたくはないけれど、やはりおすすめしませんと観た者としてはっきり主張することがこの体験を無為にしない唯一の行為というところでしょうか。